第71話 物部王朝と葛城氏<起編>

投稿日:2017年2月05日

 私は第69話 宇佐八幡<前編>で、応神天皇(15代おうじん)に始まる物部王朝の11天皇の内、「中国の歴史書で実在が確認できるのは5人だけで、半分は日本の歴史を長く見せるために古事記、日本書紀編纂時に水増しされた架空の天皇です。」と書きました。

 私は軽率でした。確かに歴史を長く見せる為の操作は行われているのですが、仔細に見れば最後の武烈天皇(25代ぶれつ)は応神天皇から数えて6世代目。11人の天皇はあり得ることでした。

 今回、古事記・日本書紀(以下、記紀)の系図に基づいて物部王朝を解明します。物部王朝を特徴付けるのは葛城(かつらぎ)氏との関係です。

 下の「物部王朝天皇一覧」にまとめましたが、葛城氏との姻戚関係が始まる二代目以降、葛城氏が妻もしくは母でない天皇は安康(あんこう)と最後の武烈(ぶれつ)だけです。安康は暗殺され、武烈は王朝を譲っています。葛城氏との姻戚関係を持つことが天皇の条件であったようです。

 <起編>では「葛城氏」の実態を明らかにします。<承編>では「葛城氏」との争いと意外な対抗策を解明します。<転編>では中国の史書を用いて17代履中(りちゅう)以降の在位年を確定すると共に王朝の後継者が絶えるまでを追います。そして<結編>。私も驚いた意外な事実が明らかになります。

物部王朝天皇一覧:

世代数 天皇 特記事項
第一 15代 応神(おうじん) 九州から東征し崇神王朝を滅ぼす。
第二 16代 仁徳(にんとく) 葛城氏から皇后を迎える。
第三 17代 履中(りちゅう) 葛城氏が母。墨江中津王の反乱。
// 18代 反正(はんぜい) 葛城氏が母。
// 19代 允恭(いんぎょう)   同
第四 20代 安康(あんこう) 暗殺される。
// 21代 雄略(ゆうりゃく) 葛城氏が妻。百済を再興。
第五 22代 清寧(せいねい) 葛城氏が母。皇后、皇子女共になし。
// 23代 顕宗(けんそう) 葛城氏が母。履中天皇の孫。
// 24代 仁賢(にんけん)   同
第六 25代 武烈(ぶれつ) 蘇我王朝の継体天皇(第六世代)に譲る。

1.物部王朝の時期

 先ずは物部王朝の開始時期を確定させておきましょう。

 日本書紀は日本の歴史を長く見せるために応神天皇即位を西暦270年にしています。しかし物部王朝を特徴づける巨大前方後円墳、大土木工事、大量の鉄製品と馬具、須恵器は5世紀初に始まることが確定しています。王朝が始まったのは紀元400年頃と言えます。

 次は終わる時期です。物部王朝の最後は武烈天皇。次の蘇我王朝の創始者である継体天皇(26代けいたい)の即位年は西暦507年にあたります。そして国の中心となる大和に入るのは526年。

 継体天皇以降、日本書紀は在位年の操作はしていないように思われ、これらは妥当です。物部王朝は5世紀を中心とした百年余でした。

2.葛城ソツヒコ

 物部王朝と葛城氏の姻戚関係は二代目の仁徳天皇(16代にんとく)に始まります。

 仁徳は、葛城ソツヒコ(日本書紀では襲津彦、古事記では曽都毘古)の娘・磐之媛(いわのひめ)を皇后とし、その間に生まれた三人の皇子が順に天皇位を継ぎます。履中(17代りちゅう)、反正(18代はんぜい)、允恭(19代いんぎょう)です。

 娘を天皇に嫁がせることができた葛城ソツヒコとはどのような人物だったのでしょう。結論から言えば、記紀は意図的に記録しなかったようで手掛かりはあまりありません。それには理由があるはずです。残されたわずかな手掛かりから追っていくことにしましょう。

3.武内宿禰

 先ずはソツヒコの父。日本書紀には書かれていませんが、古事記によれば武内宿禰(たけしうちのすくね)というとんでもなく長寿の人です。

 どれくらい長寿かと言いますと、景行天皇(12代けいこう)から仁徳天皇(16代)まで5代の天皇に仕えました。日本書紀は景行天皇の即位を西暦71年に設定しており、仁徳天皇は西暦399年に没したことになっていますので、その寿命はもはや人類の域を超えています。

 日本書紀では孝元天皇(8代こうげん)の曾孫、古事記では孫と記します。

 ここから言えることは、武内宿禰とは王の血を引く家来を包括的に示す概念であり、架空の人物ということです。とんでもない長寿にしたのは、前王朝から物部王朝まで継続して仕えた忠臣がいれば天皇の血筋を「万世一系」と偽装する補強材料になるからです。

 前王朝とは、神話と歴史の間を取り持つ初代神武(じんむ)天皇と「欠史八代」(架空の2代から9代をこう呼ぶ)を含めた、実質上の初代である崇神天皇(10代すじん)から仲哀天皇(14代ちゅうあい)までで、応神天皇に滅ぼされています。

4.葛城氏のルーツ

 古事記が武内宿禰の子とする葛城ソツヒコですが、武内宿禰が架空の人物である以上この線では追えません。

 ソツヒコに関する記述は古事記になく、日本書紀に書かれたのもわずか5ヶ所。その最初と最後の記事の期間は人類の寿命を超えています。

 ソツヒコを実在の人物と考えた場合、娘を天皇の皇后にする点から見て王の血統に極めて近い人物とするのが素直ですが、それをうかがわせる記事は何もありません。

 次の系図をご参照下さい。葛城氏は仁徳、履中、雄略と三人の天皇に娘を嫁がせる家柄にもかかわらず古事記はもちろん日本国の正史である日本書紀に親族の記録がほとんどない、いわば娘を出すだけの存在です。こんなことがあり得るのでしょうか。逆説的に言えばこれが大きな手掛かりです。

次の系図

 実は一つだけ考えられます。それは出自が外国の場合です。日本書紀は中国にならって、日本が中国と並び立つ立派な国であることを示すために8世紀に編纂された日本国の正史です。神代から日本に続く天皇家に外国人の血が混じっているとは絶対に書けなかったからです。

 ではその外国とはどこか。それは百済(ひゃくさい)です。学者でもない筆者が「葛城氏は百済人だった!」などと言い出すと、素人の「トンデモ日本史」と感じられるかもしれませんが、日本書紀にはその手掛かりが残っているのです。

 日本書紀雄略天皇2年の記事に百済の池津媛を天皇の嫁に出したにもかかわらず石川楯が手を付けてしまい焼き殺されたこと、同5年にそれを知った百済王は今後は媛を出さないと言ったことが記されています。

 記事自体の信憑性は低いのですが、百済王の媛が日本の天皇に嫁ぐことが常態であったことを物語ります。

 百済との繋がりを追ってみましょう。

5.百済との関係

5世紀の朝鮮半島

 当時の百済は今の日本人が考える「外国」の感覚ではありません。「五世紀の朝鮮半島」地図をご参照下さい。

 3世紀の朝鮮半島南部について中国の正史「後漢書」や「三国志魏書」には、朝鮮半島南西部・馬韓(ばかん)と南東部・秦韓(しんかん。辰韓とも書く)では言語、習俗が異なったこと、秦韓人は中国・秦王朝の時代(前221-前206)に逃れてきた漢人(中国人)であることが書かれています。

 馬韓と秦韓に挟まれた弁韓(べんかん。後の加羅と任那)は倭人(日本人の蔑称)、穢(わい)人、韓人、秦韓人の雑居地域になっていました。4世紀も後半になり、先に高句麗(こうくり)を建国していた穢人が馬韓に百済を建国しました。

 やや遅れて北方の騎馬民族・匈奴(きょうど)が秦韓に新羅(しんら)を建国します。更に「辛卯年(紀元391年)、倭(わ。日本の蔑称)が渡海し、百済、加羅、新羅を破って臣民とした」(高句麗の広開土王碑文)のです。

 即ち5世紀の朝鮮半島南部は韓人、秦韓人、穢人、匈奴、倭人の居住域が複雑に入り交じり、その上に建国されたばかりの百済、新羅の二国、それに日本の拠点である任那(みまな)が乗っかっているというイメージです。

 そもそも応神天皇は秦氏(はたし)の王であり(注)、秦氏と共に北九州を経由して大和に入り物部王朝を建てました(69話「宇佐八幡」<前編>)。秦氏とは秦韓人(漢人)のことです。新羅から日本に至るには百済の協力が不可欠です。

 日本書紀のソツヒコの5つの記事は全て新羅との戦いか百済に関するもので、秦氏の移住を述べた次の記事もそうです。

 「応神天皇14年、天皇は帰化を望む弓月民(ゆづきのたみ。秦氏のこと)が新羅の妨害で日本に来られないことを知り、ソツヒコを派遣した。成果がないので同16年、精兵を新羅に差し向けソツヒコと共に連れ帰った。」

 その応神天皇16年には「百済の阿花王が亡くなり、人質として日本に来ていた直支王を帰国させ王位に就かせた」と書かれています。

 応神天皇以降も物部王朝の期間を通して日本は百済と極めて密接な同盟関係を続けます(「15.倭の五王」、「19.雄略の時代」で述べます)。

注:漢人なら必ず持つ姓を天皇家は持たない点から、父が倭人(日本人)、母が秦氏(中国人)である可能性が高いと筆者は考える。

6.葛城ソツヒコの正体

 百済は高句麗(こうくり)と同じツングース系民族・穢人が中国東北部から南下して朝鮮半島南西部に建てた国です。一方、新羅は中央アジアの騎馬民族・匈奴(フン族)が朝鮮半島南東部に建てた国です。両国は4世紀の建国から7世紀に百済が滅ぶまで抗争を続けました。

 百済の敵が新羅なら、秦氏の故国・秦韓を奪ったのも新羅。物部王朝と百済には協力し合う素地がありました。新羅に対抗するには盟友関係をより強固なものにする必要があったはずです。その一番の方法といえば、それは血の結束です。

 応神天皇と百済王は互いの皇子と王女の結婚を考えたのではなかったか。応神の後を継ぐ皇子は仁徳。バランスを考慮すれば磐之媛は百済王の媛ということになります。

 私は葛城ソツヒコは百済皇太子、そして百済王であったと考えます。先に引用した秦氏移住記事の「ソツヒコ」を「百済皇太子」と読み替えても筋が通ります。日本書紀は意図的な操作が多く必ずしも信用できませんが、同16年の記事の直支王がソツヒコとすれば丁度当てはまります。

 天皇家に百済王の血が入っているのなら475年頃(「19.雄略の時代」にて注記)の百済滅亡後、雄略天皇(21代ゆうりゃく)が百済を再興した理由、660年に再び百済が滅亡した後も再興を目指して天智天皇(38代てんち)が朝鮮半島に出兵し白村江(はくそんこう)で戦った理由、何れも無理なく説明できます。

7.幻の葛城氏

葛城ソツヒコの墓と言われる宮山古墳(御所市室)

 葛城ソツヒコは百済王でした。その後天皇家に嫁ぐ「葛城」の媛もその時の百済王の娘と考えて良いでしょう。

 一方、従来の学説は葛城という地名と氏素性を結びつけ、「葛城氏」なる豪族が葛城に存在したと考えました。葛城とは奈良盆地南西部の地域名で、現在の大和高田市、葛城市、御所市(ごせし)あたりです。

 御所市室(むろ)にある宮山古墳は墳丘長238m。全国で18番目の規模ですから天皇もしくは天皇に準ずる人物の墓のはずです。

 ところが物部王朝の天皇墓は大阪府の南河内(みなみかわち)に集中していますし、築造された5世紀初頭は日本最大の2墓である応神天皇陵(体積が1位)と仁徳天皇陵(全長が1位)の築造が行われており、対応する天皇がいません。

 そこで仁徳天皇の皇后を出した葛城ソツヒコの墓とされたのです。「葛城氏」がこれだけの規模の古墳を造れたということになり、「葛城氏」は天皇家に匹敵する豪族とされました。

8.葛城氏の実態

同墳丘上の靫(ゆき)型埴輪(靫は矢を入れる道具)

 ソツヒコは百済王ですから葛城に墓を造ることはありません。ならば誰の墓か。私は磐之媛の輿入れに従って片道切符で来日し、媛を支えた百済王族の墓と考えます。古事記は仁徳天皇が磐之媛のために葛城部(かつらぎべ。葛城に設けられた奉仕集団)を定めたと記します。百済王族と葛城の関係はここに始まります。

 日本書紀には雄略天皇5年に百済王の弟・昆支王が派遣されてきたこと、武烈天皇3年に百済王族とみられる意多郎が亡くなり高田丘(大和高田市近辺?)に葬られたことが記されています。御所市柏原には5世紀半ばに造られた墳丘長150mの前方後円墳もあります。

 百済から極めて地位の高い王族が、おそらく途切れずに日本に派遣され、それら王族は葛城に葬られたことが推定できます。「豪族葛城氏」は幻ですが、葛城には葛城部があり百済王族と繋がり続けたことは間違いありません。

9.百済王族の役目

同横の八幡神社(応神天皇を祀る)

 では、百済の王族は何のために日本に派遣されてきたのでしょう。

 「5.百済との関係」で引用した直支王のくだりから人質と考えることができるでしょうか。死ぬまで留め置かれる人質などあろうはずもありません。

 没後は天皇に準ずる規模の古墳に葬られており、最高の国賓として遇されていたことが解ります。とするならば百済王の代理として日本に駐在した、現代で言う大使と考えるのが素直です。

 百済は隣国新羅の脅威に絶えずさらされており、百済外交の最重要課題は朝鮮半島における日本との同盟関係の維持です。その為に最も重要なことは天皇と百済王の姻戚関係を継続することです。

 百済王の命を受け百済大使として日本に赴任した百済の王族は、天皇に嫁いだ百済王女を支援すると共に、次の天皇もしくは次期天皇と目される皇子に百済王の媛を嫁がせることを主たる任務としていたと私は考えます。

第71話<承編>に続く

地図:5世紀の朝鮮半島
写真1:葛城ソツヒコの墓と言われる宮山古墳(御所市室)
写真2:同墳丘上の靫(ゆき)型埴輪(靫は矢を入れる道具)
写真3:同横の八幡神社(応神天皇を祀る)