<承編>では百済王女の磐之媛(いわのひめ)が産んだ履中(17代りちゅう)、反正(18代はんぜい)、允恭(19代いんぎょう)の三天皇の次の世代に均衡が崩れたことを述べました。
即ち、百済王女を母に持たない安康(20代あんこう)が即位したのですが暗殺されました。安康の弟の雄略(ゆうりゃく)が躍り出ます。
15.倭の五王
雄略天皇に入る前に、ここで各天皇の在位年を検討しておきましょう。解明に役立つのは中国の史書(正史)です。中国文明は四千年にわたり正確な歴史を書き残してきました。
各王朝は記録マニアと言えるくらい詳細な記録を残し、それをその王朝が滅んで歴史観の揺らぎが落ち着いてから正史としてまとめるということを繰り返してきました。おまけに王朝の変遷とあまり関係のない中国外の国や地域については記録を改ざんする必要もありません。そんなことで中国の正史は信頼に足りるのです。
物部王朝の天皇は、朝鮮半島を巡る争いに中国南朝の権威を利用する目的で朝貢し、称号をもらいました。当時日本は朝鮮半島南部の任那(みまな)に拠点を持ち、百済(ひゃくさい)を盟友として、新羅(しんら)と朝鮮半島南東部の領有を巡って争っていました。
なぜならそこが秦氏(はたし)、即ち物部王朝が率いた人々の母国・秦韓(しんかん)の地だったからです。
南朝の歴史書に残る倭(わ。日本の蔑称)の朝貢記録には、讃、珍、済、興、武(さん、ちん、さい、こう、ぶ)の五人の王が書かれています。五王をどの天皇にあてはめるか、史書には手掛かりとして弟、子、と相続関係が書かれています。
これに該当するのは履中天皇から5人の天皇を即位順にあてはめた場合のみです。次の表をご覧下さい。
倭の五王対照表:
倭王 | 王朝と記録年 (西暦) |
天皇 | 記事 | 日本書紀 在位年数 |
筆者推定 在位 |
---|---|---|---|---|---|
讃 | 宋421,425,430 | 17代 履中 | 6 | 421-438 | |
珍 | 宋438 | 18代 反正 | 讃没,弟立つ | 5 | 438-443 |
済 | 宋443,451,460 | 19代 允恭 | 42 | 443-462 | |
興 | 宋462 | 20代 安康 | 済の子興立つ | 3 | 462-477 |
武 | 宋477,478, 南斉479, 梁502 |
21代 雄略 | 興没、弟立つ | 23 | 477-502 |
筆者推定在位の初年は中国の史書に最初に記録された年としました。即位後最初に朝貢した月がばらばらですから、前天皇没後間を置かずに新天皇が即位し、朝貢使を派遣し代替わりを報告したはずです。
朝鮮半島情勢は絶えず緊張していましたので正統な倭(わ。日本の蔑称)の王であることをすかさず認めてもらう必要があり、同時に朝鮮半島支配者の称号「安東将軍」を求めたのです。
中国の記録は正確です。日本書紀も在位年数を操作していることは間違いありませんが、天皇の系図は正確であることが確認できました。
16.在位年数の操作
在位年数が反正天皇は日本書紀の在位年数と中国の記録が1年違い、雄略天皇も梁に朝貢した502年に亡くなったとすれば3年違いでほぼ一致します。
日本書紀の在位年数の単純合計が79年。この間、中国の史書は82年とほぼ一致します。履中、安康を短くし、その分允恭を長くして調整したことが解ります。
履中在位中は墨江中王(すみのえのなかつおう)の反乱があり(古事記)、安康は<承編>に述べたように皇后をめぐる争いがありましたので、不都合な記録は削除し在位期間を短縮したものと推測できます。
以上から見て日本書紀の編纂にあたっては、実際の在位年を基礎にしながら記述を操作したであろうことがうかがえます。即ち、日本書紀が記す履中天皇以降の物部王朝の天皇在位年はある程度信頼できるということです。
これが<結編>において雄略天皇以降の天皇在位年を確定するのに威力を発揮します。
17.雄略の即位
番狂わせで即位した安康天皇が暗殺されたのは、天皇と百済王女の間に生まれた皇子が継承する、本来の筋に戻す力が働いたと言えます。下の系図をご参照下さい。次期天皇は市辺押磐皇子(いちのへのおしわのみこ)になるはずです。それを阻むのが雄略天皇です。
雄略天皇(21代)は、允恭天皇の第五皇子です。五人の皇子は全て忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)が生んだ子です。第一皇子・軽皇子(かるのみこ)と第三皇子・安康天皇は既に亡くなりました。
第二皇子黒彦、第四皇子白彦は皇位継承順位で上位にあり、雄略は先ずこの二人を始末します。
次に安康天皇を暗殺した眉輪王(まよわおう)を始末しようとしますが、暗殺の黒幕であろう葛城円(かつらぎのつぶら)の屋敷に逃げ込みます。雄略は屋敷を包囲し、眉輪王と円を自害に追い込みます。そして本命の市辺押磐皇子を殺して即位します。
従来の学説では百済の存在に気付かず天皇に娘を出す葛城氏という豪族を仮定しましたので円の死をもって葛城氏の滅亡と考えました。
葛城は、仁徳天皇(16代にんとく)が皇后である百済の王女・磐之媛(いわのひめ)のために葛城部(かつらぎべ。葛城に設けられた奉仕集団)を定めたことから百済王族縁の地になっただけのことで、葛城氏が幻であることは「8.葛城氏の実態」で述べました。円は日本に大使として赴任した百済の王族です(「9.百済王族の役目」)。
18.雄略の結婚
雄略は即位後、叔母である若日下部王(わかくさかべおう)を皇后にします。皇子時代に娶ろうとしたものの、仲を取り持った大草香皇子が誅殺され、結婚未遂に終わったことは「12.安康天皇の悲劇」で述べました。
そして円の娘・韓媛(からひめ)を娶ります。その間に生まれるのが22代清寧(せいねい)天皇です。
雄略は百済との同盟を維持するために百済王の娘を娶るはずです。円は王の弟といった王の血筋に極めて近い人物と推測できますが、王ではありません。おまけに円は雄略から見て叔父・大草香皇子や兄・軽皇子と安康天皇の仇です。その娘をなぜ娶ったのでしょう。実はこの時、百済は存在していなかったのです。
19.雄略の時代
百済は475年頃(高句麗で12世紀に編纂された「三国史記」によるが、同書の記事は誤差がある)、高句麗(こうくり)に首都・漢城(かんじょう。現在のソウル)を落とされます。王と王子は処刑され百済は滅びます。
そんな状況下、安康が暗殺されました。安康の暗殺は血の比率を巡る争いのみならず百済復興にかける意欲の温度差が関係したに違いありません。円は百済の血を3/4引く市辺押磐皇子を担いで百済復興を目指したのでしょう。
雄略の即位は477年。雄略の最初の大仕事は朝鮮半島問題です。雄略は大軍を派遣し高句麗、新羅と戦い、逃れていた百済王子を即位させ(文周王)、南の熊津(ゆうしん。現在の公州市)を首都として百済を再興します。
百済では再興後6世紀前半にかけて10基以上の前方後円墳が造られます。前方後円墳は日本独自の墳墓形態ですから日本と百済の関係が一層緊密になったことが解ります。
強い王の復活と引き換えに高い代償を払うことになりました。雄略は韓媛との間に生まれた清寧天皇(22代せいねい)を跡継ぎにします。清寧は色素欠乏症で白髪。皇后もなく子も無し。
雄略は応神の血を引く皇子を殺し尽くし、他の選択肢がなかったのでしょう。清寧は在位5年で亡くなります。応神の血は絶えるかと思われましたが意外な展開が待ち受けます。
第71話<結編>に続く
地図:5世紀の朝鮮半島
写真:雄略天皇陵とみられる河内大塚山古墳(墳丘長335m。松原市、羽曳野市)