番条と筒井氏の支配
Rule of Banjo and Tsutsui

室町時代、大和の国の多くは藤原氏の氏寺である興福寺或いは同氏の氏神を祀る春日大社の支配を受けた。興福寺は多数の僧兵を抱えており、支配下にある荘園の集落は「衆徒」と呼ばれる僧兵の頭領(とうりょう)に支配されていた。興福寺一乗院と大乗院の両門跡の争いでは、衆徒番条氏が大乗院側に付いたという。

1459年(長禄3年)越智氏についた長懐率いる番条は、筒井氏に攻められ陥落。長懐は逃亡した。番条の主たる砦が置かれた現植村家と阿弥陀院の間の 堀は、現在「念仏堀」と呼ばれるが、この戦いで多数の死者を出した為と伝えられる。

1467年(応仁元年)応仁の乱が始まると、筒井氏と和解した番条長懐は、筒井氏の下、東軍に付いた。 1487年(文明19年即ち長享元年)長懐死去。近年、河川改修工事で河道から発見された墓石には、「文明十九年 僧長懐 三月十七日」とある。この 日付は「大乗院寺社雑事記」の記述と一致することが解り、衆目を驚かせた。

稗田阿礼を祀る売太神社(稗田環濠集落)

鎌倉時代に始まった鉄製農具の普及、農業生産革命は室町時代に本格化する。殊に応仁の乱の前後から約百年の戦国時代の変化が著しい。「堤防を築き、河川の流れを定めるようになりました。それまで沖積平野は湿地・沼地で住みにくいところでした。・・・河道の安定により平野に定住でき るようになり、農地と溜め池ができました。そして河川交通が発達しました。」(2003年4月29日郡山城ホールに於ける堺屋太一氏講演「豊臣秀長の今日的意義」より)。

大和川流域に約1km置きで分布する集落の形態は、このころ完成したと思われる。かくして番条の集落は、西側を流れる佐保川、東から流れ込む菩提仙川 の合流地点として、堺の港から大和平野北部に至る河川交通の要衝になった。

菩提仙川の上流には正暦寺があり、そこで醸される天下の銘酒は、このルートを通って運ばれた。

番条から当時、市が立った筒井城下へは1kmしか離れておらず、筒井の港としての機能を果たしたことであろう。郡山城へも3kmの距離であり、番条を 中心とした物流が城下町の場所選定を左右したものと言える。

周辺略図
筒井城とその枝城(番条・稗田・若槻)位置関係略図(クリックで拡大)
番条北城址(現中谷酒造酒蔵)

筒井氏は1559年(永禄2年)、進入してきた松永久秀と大和の国の支配を巡って争う。死闘は断続的に続き、この間1567年には東大寺が戦火によっ て焼かれている。又、二回、都合10年以上にわたって筒井城を奪われている。筒井城を奪還した1571年から久秀敗死の1577年(天正5年)までの間 に筒井城の枝城として番条の北城(現中谷家及び中谷酒造所在地)が整備されたと考えられる。 1580年(天正8年)筒井順慶は、信長の命により筒井城その他の城を破却し、郡山城に拠点を集約した。1583年には天守閣も完成したと言う。

1584年(天正12年)筒井順慶が死去。翌年豊臣秀長が大和・紀伊・和泉の百万石領主として郡山城主になり、城下町と城を整備した。