酒米の苗作り vol.18

投稿日:2006年5月19日

<酒蔵の様子>

布洗い

 搾った原酒の火入れを終了しました。酒の種類毎に濾過を行い、60度に加熱してタンクに入れ密封します。タンクの外に水をかけ、扇風機で風を送ってできるだけ早く冷ますようにします。酒質を守る為です。暗く涼しい酒蔵の中でゆっくり熟成させます。

 酒造りには多くの布を使います。全て洗って、天日に干し、きちっと包装して片づけます。もろみを搾る圧搾機の布を洗い終えれば片づけ作業もほぼ終了です。

芽を出した山田錦

 5月8日、山田錦の種籾をまきました。種は、4日前から水に漬け、根の部分がふくらんできています。パレットに山砂を入れ、そこにまきました。上から栄養のある粒状の土をかけて出来上がりです。3反分、40数枚のパレットをならべ、スズメに食べられないように寒冷紗を掛けました。

写真上 布洗い
写真下 芽を出した山田錦

<今月のテーマ> 出雲大社 前編

一畑鉄道出雲大社駅

 連休を利用して出雲に出かけました。天気に恵まれ、宍道湖の青い水面に心安らぐ旅となりました。日本海の新鮮な魚を堪能し、美し酒に心が癒されました。酒造りを離れて、出雲の信仰について考えてみました。

1.神話から

出雲大社大国主と兎の像

 大国主(おおくにぬし)と言えば、「因幡の白ウサギ」を助けた話で親しまれている神様です。

 古事記・日本書紀(以下、記紀)によりますと、葦原中国(あしはらなかつくに)を平定する為に天から派遣されたタケミカヅチに、葦原中国を治めていた大国主は「この国を譲る代わりに、私の住む立派な宮殿を建ててほしい」と言ったそうです。

 そこで出雲に宮殿を建てました。これが出雲大社の始まりとしています。

2.歴史の考証

 国譲りの神話は、近畿地方を中心に中国、四国、中部地方を治めていた統治集団が、3世紀末に九州から東征してきた神武(じんむ)、それを引き継いだ崇神(すじん)天皇に破れて出雲に追われたことを表しているようです。

 新たにやって来た支配者は、銅鐸ではなく銅鏡を祭祀に用い、前方後円墳を奈良県桜井市に造り始めます。

 記紀は、それを編纂した7世紀から8世紀にかけて、当時の政権に役立てる目的で内容を創作しれたと考えられます。

 唐にならって中央集権国家の建設を進めていましたので、王権の偉大な歴史を誇示し、政権の正統性を謳い、政権が担う「日本」を立派に見せる必要がありました。歴史の長さを誇張するために、実際には3世紀末に起きたことを神話の時代に押し込んだのでしょう。

3.創建

 曲玉(まがたま)など4世紀の遺物が発掘されていますので、出雲に追われた頃には大社境内で祭祀が行われたことは間違いありません。ではいつ頃宮殿のような建物ができたのでしょう。

 古事記には崇神の次の垂仁(すいにん)天皇の御代(4世紀前半)に言葉を話せない皇子の崇(たた)りを解く為に出雲の宮を天皇の宮殿のように建て替えたとあります。

 更に斉明天皇の5(西暦659)年にも天皇の宮殿のように建て替えたとあります。言葉を話せなかった孫が亡くなり斉明天皇が悲しんだ翌年のことです。斉明期の事実になぞらえて二百年以上前の垂仁期の記事を書いたのでしょう。

 では、斉明期の建物の規模は宮殿のように大きかったのでしょうか。私は、三輪(みわ)神社と同様、記紀の内容を現実に示すために、記紀の編纂を行っていた7世紀終わり頃に初めて大規模な建物が建てられたと考えています。因みに、三輪神社に祀られている大物主(おおものぬし)は、大国主と同じ神とされます。

4.祭祀の継承

 記紀と同じ頃、唐にならって律令の編纂が進められていました。律令体制の一環として出雲の国が設置され、出雲国造(いずものくにのみやつこ)が統治すると共に、出雲大社の祭祀を行うことになりました。

 出雲の特殊性は、現代に至るまで連綿とこの国造の家系が出雲大社の祭祀を司ってきたことです。

 出雲大社は千三百年の歴史を通して、「杵築(きづき)宮」と呼ばれることが多かったようです。「社(やしろ)」ではなく「宮(みや)」とされるのは宮殿として建てたと記紀に書かれたからに他なりません。明治以降、「出雲大社」が正式名称となりました。

前編終わり

写真上 一畑鉄道出雲大社駅
写真下 出雲大社大国主と兎の像