酒米の苗床作りと金刀比羅宮<第一編> vol.30

投稿日:2007年5月18日

<酒蔵の様子>

酒米の苗床作り

 新酒の火入れ作業、酒蔵の片づけもほぼ終了しました。

 酒造りが一段落したところで、五月は酒米作りを始める時期です。

 5月連休中に種籾(たねもみ)を水に浸して日光の当たる所に置きます。種は水と光に反応して、連休明けには芽の部分がふくらんで来ます。いよいよ苗床(なえどこ)作りです。今年は8日に作業を行いました。

 プラスチックのケースに山砂を入れ、砂を平らにならしてから種籾を蒔きます。密度が高くならないように疎(まば)らに蒔きます。こうすることによって田植えの時にも疎らに植わることになり、風通しや光の透過が良くなります。籾の上は栄養のある土で覆います。

 夏を思わせる陽気の中、作業を始めて3時間、3反分の苗床60枚が出来上がりました。鳥に種籾を食べられないように寒冷紗(かんれいしゃ)で保護して出来上がりです。これから田植えの6月まで、毎日水をやって育てます。

<今月のテーマ>

 暫くお休みをいただいておりました「寺社巡り」ですが、連休を利用して四国に金比羅参りに出かけ、再開することができました。今月から4回に分けて金刀比羅宮を取り上げます。

 金刀比羅宮は、「金比羅参り」で江戸時代から今日に至るまで有名な観光地として栄えています。その始まりから現在に至るまでの道のりは、商売をする上でも非常に興味深いものです。この道のりを辿る旅に、皆様を案内致しましょう。

 では、第一編の始まりです。

金刀比羅宮<第一編> 今日の姿から

金刀比羅宮大門

 「こんぴら船々 追風(おいて)に帆かけて しゅらしゅしゅしゅ・・・」という有名な民謡は江戸時代末期に作られたものですが、リズミカルな節回しも軽快で、今日まで歌い継がれてきました。江戸時代には伊勢参りと並んで庶民の娯楽として金比羅参りは大流行しました。

 廃仏毀釈で祭神の金比羅大権現(こんぴらだいごんげん)は消滅しましたが、参拝客は途絶えませんでした。最盛期には及びませんが、昭和2年には参拝客を運ぶ琴電(ことでん)が開通するなど継続した人気を誇り、現在に至ります。

 参道の長い石段、重要文化財の旭社(あさひのやしろ)や書院にかつての栄華がしのばれます。歴史上、突然現れて突然消えた金比羅大権現とはいったい何だったのでしょう。

1.海の神様

 金刀比羅宮(ことひらぐう)では、「ご鎮座は神代のころと伝えられ、古くはご祭神大物主の神一柱で、海の神様として厚い信仰を集めてきました」としています。

 宮は、讃岐平野西部を見下ろす位置にあり、眼下は一面の讃岐平野です。最も近いところでも海まで12キロも離れています。平野を香川県唯一の一級河川土器川が流れていますが、土器川の全長は33キロ、源流から河口までの高低差は1キロにすぎず流量も多くはありません。

 古代には宮の近くまで入江が入り込んでいたといいますが、土砂の流入量から考えれば気が遠くなるほど昔のことでしょう。海の守り神の信仰が神代から受け継がれてきたと言われても信じ難いものがあります。

2.大物主(おおものぬし)

 金刀比羅宮は、明治初年の廃仏毀釈までは金比羅大権現を祀る象頭山松尾寺という真言宗の寺でした。寺院の消滅を免れる為に、明治維新政府の意向に沿う形で金比羅大権現の代わりに大物主神を祭神にした神社に変身したのです。

 祭神こそ変えましたが、名称は「松尾寺」から「金刀比羅(ことひら)宮」にして、「金比羅(こんぴら)」を容易に想起できる音と文字を残したのは技ありです。観光客は、江戸時代からの連続性を空想しながら階段を登って疲れ果て、参拝の対象が変化したことに気付かない内に違和感なく「お参り」できるという訳です。

3.松尾寺創建

大物主三千年の歴史

 神社になってからというもの、宮では「松尾寺」の歴史を封殺し、明治維新から140年経つ今日でも「神社の始まりは神代から三千年続く大国主の信仰」であると主張しています。三千年前と言えば縄文時代です。

 立証し得ない曖昧な発祥の主張もさることながら、比較的新しい松尾寺の歴史さえ一切触れずに信仰の古さを強調するのが宮の意向です。これをくぐり抜けて真実に近づくには、先ず松尾寺の起源を押さえることです。その手掛かりは、奥社に祀られる「厳魂彦(いずたまひこ)」神にありました。

 讃岐は、昔から真言宗の盛んなところです。宮の北西約6キロには真言密教の開祖空海が生まれた善通寺があり、今も四国八十八カ所霊場七十五番札所として厚い信仰を集めています。

又、宮の南東約5キロにある満濃池は空海が弘仁12(821)年に改修しています。

 安土桃山時代、井上宥盛という人が真言宗総本山の高野山に入って修行をし、松尾寺に入りました。慶長18(1613)年に亡くなりますが、宮は宥盛を「教祖厳魂彦命(いずたまひこのみこと)」と神格化して祀ったのです。

 更に宮では宥盛を「第四代別当」とも言います。松尾寺は真言宗の信仰の基に、平安時代から真言宗の盛んな讃岐に於いては戦国時代という新しい時代に創建された新興の寺であることが推測されます。

 更に、その新興の寺で宥盛が「教祖」と呼ばれるにふさわしい決定的な事績を残したに違いありません。

<第二編>へ続く

写真上:酒米の苗床作り
写真中:金刀比羅宮大門
写真下:大物主三千年の歴史