酒米の出穂、談山神社 vol.46

投稿日:2008年9月05日

<酒蔵の様子>

出穂

 田植えから間もなく3ヶ月。稲の穂が出そろいました。山田錦という品種は、原生品種に近い為、田植えの時期にかかわらず日照時間を感知して毎年8月末に出穂(しゅっすい)します。数日で穂は出そろい小さな白い花が咲き、受粉します。

 7月から猛暑が続いた今年の夏も、盆を過ぎて勢いを弱め、適度な降雨もあり、稲の生育は順調です。
稲刈りは、例年通り10月上中旬です。

写真:出穂

<今月のテーマ> 談山神社

東大門

 奈良盆地南東部。桜井市街から吉野に向かって山道を南東にたどると、やがて木漏れ日に白く浮き立つように悠然と建つ木造の門が現れます。談山神社(だんざんじんじゃ)東大門です。

 門から続く長い坂道の両側は苔むした石垣が続きます。かつて石垣の上には僧坊が連なっていたはずです。やがて右側に高く積み上げられた石垣の上に赤い伽藍群が見え、更に高いところに十三重塔がそびえ立っています。幾たびの戦火をくぐったこの一画はまるで城郭のようです。

1.伝説

講堂(現神廟拝所)と十三重塔(現神廟)

 同社は「多武峰(とうのみね)縁起」を根拠に、「大化の改新発祥の地」と称しています。

 大化改新と言えば西暦645年。時の権力者蘇我氏を暗殺し、大化改新の詔が出されて天皇中心の中央集権国家が造られていく歴史の節目と教わりました。その暗殺計画の中心人物であった中大兄皇子と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、この談山神社境内で開かれた蹴鞠(けまり)の会で出会ったというのです。ただこの時にはまだ談山神社の前身である妙楽寺は創建されておらず、「大化の改新」自体その真実性を疑われていますので「大化の改新発祥の地?!」ぐらいの表現がしっくりきます。

2.創建

 大化改新に功績があったとされる中臣鎌足は、死の直前に藤原姓を許されます。死後、長男の定慧和尚が白鳳7(678)年にこの地に改葬し、遺骨の上に塔、その横に伽藍を建てたのが妙楽寺の始まりです。

 その後荒廃し、平安初期に再興されます。平安時代は、空海の興した真言宗、最澄の天台宗という二大密教の流行期です。現在多武峰(とうのみね)と呼ばれる談山神社一帯は、奈良盆地南東部から吉野に抜ける峠越えの山中という場所柄、密教寺院の適地でした。

 妙楽寺は天台密教に傾斜し、比叡山延暦寺の末寺としてその勢力下に入ります。天皇の外戚として政治権力を握っていた藤原氏ゆかりの寺として、天皇及び藤原氏から多くの寄進を受けて栄えました。

3.勝運?

鎌足公御神像

 「鎌足公御神像」は「古来より勝運の神としてあがめられ」とされていますが、妙楽寺は戦に負け続けました。

 実は、延暦寺の末寺になったことが不幸をもたらしたのです。藤原氏の氏寺である興福寺と延暦寺の争いに巻き込まれ、度々興福寺の襲撃を受けて焼かれました。特に承安3(1173)年、正平6(1351)年、永享元(1429)年には壊滅状態になりましたが、その都度復興されました。談山神社のパンフレットによりますと、同社は「強運・福禄のお宮」でもあります。度々の復興は「強運」を示しています。

4.乱世

 応仁3(1469)年には内部抗争で全焼壊滅。戦国時代に入り、永正3(1506)にも全焼しました。現在残る十三重塔は、享禄5(1532)年に再建されたものです。

 永禄2(1559)年に戦国武将の松永久秀が大和へ進入し、奈良盆地北端に多聞城を築いて大和支配の拠点とします。大和武士団が入り乱れての壮絶な戦いが繰り広げられますが、妙楽寺は永禄6(1563)年の松永久秀の攻撃を防ぐことができました。

 やがて戦いが終わる時がやってきました。豊臣秀吉が天下人になり刀狩りを行ったのです。天正13(1585)年、豊臣秀長が大和国に入り、僧兵を武装解除しました。妙楽寺の僧兵も武器を取り上げられ下山させられました。

 更に秀長により妙楽寺一門団結の象徴である大織冠像(「大織冠(だいしょくかん)」とは藤原鎌足のこと。現存の「鎌足公御神像」と考えられる)が郡山城下に移されましたが、秀長の病気平癒の祈祷を機会に多武峰に戻され、これ以降信仰の山に戻るのです。

5.廃仏毀釈

 江戸時代は幕府から三千石、後には六千石を与えられ、40坊近い建物を維持していました。しかし、明治維新の廃仏毀釈の嵐で「妙楽寺」から「談山神社」に看板を掛け替えることになりました。僧侶は神職に移籍。仏像は廃棄もしくは売却し、信仰の原点であった藤原鎌足を神として祀ることにしたのです。

 ほとんどの僧坊が破壊されたにもかかわらず、主要建物がその名称を変えて残されたことは不幸中の幸いです。聖霊院は本殿、護国院は拝殿、講堂は神廟拝所、常行三昧所は権殿といった具合です。

 仏教寺院の象徴である十三重塔の基礎には仏舎利の代わりに藤原鎌足の遺骨が納められており、墓の性格を持つものです。しかし墓は神社境内には馴染みません。そこで新たに背後の山に墓所を造りました。塔の名称は神廟としました。

 このようにして寺から神社に内容は変わりましたが、室町時代から続く石垣、江戸時代の建築群、とりわけ優美な十三重塔の外観が我々の目を楽しませてくれます。

談山神社終わり

写真上:東大門
写真中:講堂(現神廟拝所)と十三重塔(現神廟)
写真下:鎌足公御神像