苗の成長と奈良酒の伝統 vol.69

投稿日:2010年8月06日

<蔵の様子>

株が分かれ、根を深く張る稲

 梅雨明けと共に猛暑。連日の35度には参ります。

 ただ、7月29日は一日小雨で一足先に秋が訪れたようでした。しかし、甘くはありません。その後はしっかり暑さがぶり返しています。

 6月8日に植えた山田錦の苗は順調に育っています。丈は約70センチ。株分かれも盛んです。疎らな苗の間を風が通り、日光が根本に射し、根も深く張っています。葉の色も日々濃い緑になっていきます。

 蔵では、酒粕の出荷をしています。タンクに踏み込んでおいた粕は、気温の上昇と共に麹が残してくれた糖化酵素が働き、柔らかくなります。7月から出荷を始め、今月でほぼ売り切れです。奈良漬をされる方は、本便り45号(2008年8月)をご覧下さい。https://www.sake-asaka.co.jp/blog-brewery/20080808/

 魚や肉を粕漬にして焼くのも美味です。塩をして、ガーゼに包んで外側に酒粕を塗って、冷蔵庫で2日も置けば粕の風味が染み込みます。

 酒粕は、4kg入袋が1,200円(消費税込。送料別)。吟醸酒や純米酒など米の芯だけで作る高級酒の酒粕が主体です。「中谷の酒粕は、サイコー!」とご近所の主婦の間で評判です。お早めにどうぞ。

<今月の話題> 平城京遷都と奈良酒の伝統

九名侍女図(西安郊外、永泰公主墓(8世紀初)壁画の模写)

 今年は平城京遷都千三百年にあたります。紀元710年、奈良盆地南部の藤原京から盆地北部に都が移され、平城京と名付けられました。現在の地名で言えば奈良市中央部と大和郡山市北部にあたります。大和郡山市には平城京の正門・羅城門跡があります。弊社は、羅城門の3km南です。

羅城門跡

 平城京は、唐の都・長安に倣って建設されました。北端の一条大路から南端の十条大路まで、整然と等間隔に配置された道路に区画された方形の都市でした。都の南北の中心軸は朱雀大路と呼ばれ、その北の突き当たり、一条大路と二条大路の間が内裏と呼ばれる天皇の行政区画でした。都には東西に「市」と呼ばれる交易場が設けられました。

 唐は世界最大の国家で、先進国でした。日本は中国から都の構造のみならず政治体制、宗教、文化や技術を積極的に導入しました。当時、日本政府が派遣した使節を遣唐使と言います。

 今年は上海万博が開催されていますので、遣唐使が乗った船を模した木造船が大阪を出発して、6月12日のジャパン・デーに合わせて上海港に到着しました。

万博会場では、当時の日本貴族の服装を着た人々も登場し、祭りを盛り上げました。

弊社に伝わる酒壺(1570年頃の備前焼)

 平城京には、酒造り専門の役所がありました。稲作が日本列島に伝わってから、日本人は米を原料とする醸造酒を飲んできました。おそらく中国の最新技術を導入した米の酒を造ったのでしょう。その酒は、国の儀式に使いましたから天皇や貴族はもとより、役人の口にも入りました。さぞ美味しかったことでしょう。

 794年、都は現在の京都市に移りますが、酒造りの技術はずっと奈良で受け継がれました。それから5百年、平城京があった地の東側の山中、正暦寺で酒造りは改良され、現代に繋がる清酒づくりが始まりました。この技術は池田や灘に広まります。中谷酒造には、酒造りに使われた16世紀の大きな酒壺が伝わっています。

この号終わり

写真1:株が分かれ、根を深く張る稲
写真2:九名侍女図(西安郊外、永泰公主墓(8世紀初)壁画の模写)
写真3:羅城門跡
写真4:弊社に伝わる酒壺(1570年頃の備前焼)