第4話 日本の焼き物 後編

投稿日:2010年1月08日

日本の焼き物 後編

3.須恵器

備前焼酒壺(元亀年間1570-1573年。高さ1080mm。中谷家所蔵)

 3世紀後半、奈良県桜井市付近に巨大な前方後円墳が出現します。記紀(古事記、日本書紀)にあてはめますと、神武(じんむ)天皇による東征、そして崇神(すじん)天皇の王朝の始まりです。

 それから百年余、再び九州から軍勢が攻め上り新たな王朝を開きます。応神(おうじん)天皇です。応神王朝は、大阪府堺市付近に全長400メートルを超える超巨大前方後円墳を含む古墳群を残しました。

 応神は今まで日本になかった騎馬軍団を率い、最先端の鉄製の武器と武具を装備し、朝鮮半島から移住してきた秦(はた)氏など中国系、漢(あや)氏など朝鮮系の人々を伴っていました。それらの人々がもたらしたのが須恵器(すえき)です。須恵器は朝鮮半島南部から出土する土器と近似しています。

 須恵器は、窯(かま)で焼きます。弥生土器より高温で焼かれ更に硬質、灰黒色です。最大の産地は古墳を造成した堺市の東側から和泉にかけての丘陵地で、窯の遺跡が多数出土しています。

釉裏青(明代の逸品の模造と思われる。高さ約500mm。北京空港にて)

 応神は朝鮮半島からやってきた可能性が濃厚です。中国は五胡十六国時代。北方の異民族が南下し次々と国を建てる混乱期でした。394年、朝鮮半島を含む華北を支配した前秦(後にも秦ができるので、「前」の字を付けて区別する)が滅びます。

 混乱の中、異民族南下の影響が日本列島にまで及んだのが秦氏や漢氏の移住であり、その首領が応神ということになります。

 記紀を見ますと、応神の母・神功皇后(じんぐうこうごう)の記述にヒントがあります。先ず、「神功皇后」自体、中国との関係では3世紀末に書かれた魏志倭人伝の「卑弥呼」の事績をパクっていますので虚構であることは明白です。

 その神功皇后は日本にやってきた新羅王子・天日槍(あめのひぼこ)の子孫としています。神功皇后は生まれそうになる応神を石で抑え、朝鮮半島を平定した後に日本で生みます。

 現代流に言えば、国籍の出生主義。応神は日本生まれであるから日本国籍。従って日本の王にふさわしいという正当化の論理が読み取れます。

 滋賀県に信楽焼があります。信楽(しがらき)とは、新羅(しらぎ)が訛ったもの(金達寿著「日本古代史と朝鮮」より)だそうです。

 須恵器はそれ以前の弥生土器に比べて硬いものでした。その音は朝鮮語の金属を意味する「スエ」から来ているとも。又、瀬戸物の「瀬」も「スエ」なのだそうです。

4.磁器

染付火鉢(江戸時代後期。直径450mm。中谷家の睡蓮鉢として使用)

 中国大陸では、宋(960-1279年)の時代から石炭の利用が本格化し、より高温で焼き、ガラスのように硬い焼き物が主流になりました。磁器です。

 その技術は、朝鮮半島に伝わり、豊臣秀吉の朝鮮出兵の捕虜として朝鮮の陶工を連れ帰ったことによって日本にも伝わりました。

 もとより中国は、高品質の磁器を生み出し、それを海路中近東や欧州に輸出し、莫大な利益を得ていたのですが、明から清へ王朝が代わった後の1656年、明の復興を目指す勢力を閉め出す為に海禁令を出し貿易が制限されました。

 この間隙を縫って日本の有田焼などが海外に輸出されるようになりました。欧州の客先の要望に応じた絵付けなど、日本らしい細かな工夫で、中国に代わって最大の供給元に成長します。

 18世紀になると中国の海禁策が緩み、中国からの輸出が復活しました。又、ドイツのマイセンでも磁器の製造が始まり、日本の輸出は下火になります。ただ、相対的地位は下がりましたが、その後現代に至るまで日本は高品質な焼き物を提供する国であり続けています。

 更に、芸術として昇華した分野でも日本の陶磁器は世界の最先端に位置づけられています。身近に陶芸教室が開かれ、焼き物を趣味とする人も多数います。これも一万数千年の歴史の成せる技と言えるでしょう。

第4話終わり

写真上:備前焼酒壺(元亀年間1570-1573年。高さ1080mm。中谷家所蔵)
写真中:釉裏青(明代の逸品の模造と思われる。高さ約500mm。北京空港にて)
写真下:染付火鉢(江戸時代後期。直径450mm。中谷家の睡蓮鉢として使用)