第53話 法隆寺と斑鳩寺<後編>

投稿日:2015年2月13日

9.山背大兄の死

 天皇家から聖徳太子という素晴らしいリーダーが生まれたのは蘇我氏の誤算でした。死後も太子の評価は上がる一方です。それにつれて太子の子・山背大兄王(やましろのおおえのおう)の人望も高まったため、643年に蘇我氏は斑鳩を襲わせます。

 山背大兄は斑鳩寺にて夫人など一族と共に自殺します。聖徳太子の血統はここに絶えました。

 この後、天皇家の逆襲が待っていました。645年、蘇我本家が滅ぼされ天皇家の時代が始まります。

10.法隆寺創建理由

道路角度の変更(法隆寺東大門西側から夢殿を望む)

 推古天皇の後、天皇の血筋は30代敏達天皇の孫の代に引き継がれます。舒明(じょめい)天皇、皇極(こうぎょく)天皇、孝徳(こうとく)天皇の三人は同父母の兄弟で(第38話「蘇我王朝と物部の血」2013年8月)、蘇我1/2、物部1/4。

 次の世代の天智(てんち)天皇、天武(てんむ)天皇は、舒明・皇極の近親婚の間に生まれたため、同じく蘇我1/2、物部1/4です。これらの人々によって法隆寺は建てられました。

 その目的は聖徳太子を慰霊し、併せて蘇我氏との抗争で亡くなった天皇家の人々を鎮魂することでした。圧倒的な蘇我氏に対し、「和」を武器に果敢に挑んだ聖徳太子の評価は死後ますます高まっていましたので、亡くなった天皇家の人々の象徴として聖徳太子を強く意識していました。一言で言えば、聖徳太子を祀る寺として建立されたと言えるでしょう。

 聖徳太子が亡くなった翌623年、太子等身の釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)を造って供養していました。その像を斑鳩寺から移し、本尊として祀ります。

 法隆寺は斑鳩寺とは違う目的のために建設されました。その違いは土地区画にも現れています。先に斑鳩寺の東西軸が北東に20度ずれ、西の延長上に藤ノ木古墳があることを述べました。

 法隆寺を建てるにあたっては土地区画を変更し、その角度を9度にして藤ノ木古墳を結ばないようにしたのです。象徴として祀られる聖徳太子を別にして、その他の天皇家故人の平等を図ったものと私は考えます。

敏達天皇

11.法隆寺建設

 2004年に奈良文化財研究所が発表したデータによれば、使用された木材の伐採年は、金堂の天井材667年、五重塔第二層の雲肘木(くもひじき)673年、中門699年。

 「工事の進行に応じて順次伐採が行われていた」(武澤秀一著「法隆寺の謎を解く」)そうですので、伐採から二、三年の内に加工されて使用されたはずです。そうしますと、日本書紀が「法隆寺全焼」とする670年には金堂がほぼ完成しており、その後五重塔、中門の順に建てられたことが解ります。

更に、五重塔の心柱の伐採年は594年とみられています。心柱には真っ直ぐで長い一本の檜(ひのき)材が必要で、このような木は少なく、大変貴重です。斑鳩寺の塔を一旦解体し、心柱を再利用したものと推測できます。

 これらの事実により、日本書紀が記す唯一の「法隆寺」全焼の記事は事実では無く、特別な意図の下に書き加えられたことが判明したのです。

12.全焼記事の意図

釈迦三尊像(法隆寺パンフレット)

 法隆寺には太子等身の釈迦三尊像を斑鳩寺から移しました。又、斑鳩寺の塔の心柱も再利用しました。斑鳩寺と法隆寺は近い関係とみられてしまうおそれがありました。それをどうしても断つ必要があったのです。なぜか。

 答えは簡単。汚れ無き寺にしたかったからです。斑鳩寺では山背大兄一族が大量自死しています。読者の皆さんも自身に置き換えて考えてみて下さい。自殺者を出した中古住宅に住もうと思うでしょうか。自殺者の数が多かったとすればどうでしょうか。

 「法隆寺」と名付けられた寺の建設が決まり、その金堂が完成し、斑鳩寺から釈迦三尊像を移し、再利用の心柱を抜いたところで斑鳩寺は焼却されたのです。

 これが日本書紀669年冬の記事「災斑鳩寺」(斑鳩寺が焼けた)と考えられます。そして約半年後の翌年4月に法隆寺全焼の記事を書き加えました。斑鳩寺が焼けてから程なく法隆寺が全焼したのであれば、法隆寺は一から再建されたことになります。

 こうして斑鳩寺の汚れが、後世に残る法隆寺に受け継がれる客観的な可能性を一掃することができたのです。

13.混同の原因

 法隆寺には二つの本尊仏があります。一つは聖徳太子の死後、太子等身に造られた釈迦三尊像。もう一つは薬師如来像。最初に書いた通り薬師如来像の光背には、聖徳太子がこの像を「寺」と共に造ったと解釈できる文章が刻まれています。

 制作年を西暦に直すと607年。この像は当初から法隆寺にあったとみられることから、法隆寺が実際より60〜100年古く見られ、ひいては斑鳩寺と混同される原因となったものです。

 刻まれた文章には「天皇」の文字があります。「天皇」という称号を使い始めるのも、薬師如来信仰が始まるのも天武天皇の時代、670年代のことです。実際には天武朝の建設中断期間をはさんで、おそらく690年頃に造られました。

 これは日本書紀の構想を時の権力者・藤原不比等(ふじわらふひと)が練っていた時期にあたります。

 法隆寺は聖徳太子を祀る為に建立されたのですから、本尊仏は太子等身の釈迦三尊像で足りるはずです。なぜ法隆寺建立に併せてもう一つの本尊・薬師如来像を造る必要があったのでしょう。

14.二つの本尊の理由

薬師如来像(法隆寺絵葉書)

 日本書紀を編纂させた藤原不比等は、特別な意図の下に670年に「災法隆寺一屋無余」(法隆寺が全焼した)の一文を入れさせました。ならば、創建時期をそれよりも前に設定しなければなりません。では何時にするのか。そしてそれをどういう形で記録に残すのか。

 先ずは時期。建設にかかる期間を除いてそれ以前でさえあれば良いのですから、必ずしも聖徳太子が建てる必要はありません。しかし法隆寺の性格上、太子との縁(ゆかり)が深いに越したことはありません。そこで推古天皇と太子が建てたことにしました。

 次は記録方法。「本尊仏」として薬師如来像を新たに作り、その光背に刻むことにしました。本尊仏は寺で最も重要なものであり、大切にされ、後世に残るからです。

 薬師如来像は、創建年を偽造し、それを後世に残す目的で作られました。薬師如来像の光背銘文は、日本書紀の全焼記事といわば一対を成すものだったのです。後の世に全焼記事との矛盾に気付く人が出たとしても、書物より現物が優先する常識を以て乗り切れると考えたはずです。

 事実、斑鳩寺は忘れ去られ、光背銘文を根拠に法隆寺創建を推古朝とし、仏像を持ち出して被災を免れたという解釈がなされ、或いは全焼記事が疑われてきたのです。

15.光背銘文解釈

 読者の皆さんは前段最後の「全焼記事が疑われ」をお読みになって、「血塗られた斑鳩寺との関係を断つ為にせっかく挿入した全焼記事が疑われたのでは、意味が無い」と考えられたかもしれません。もう一つ踏み込んでおきましょう。

 先に書いたように光背には、「用明天皇の治世丙午年(586年)、後の推古天皇と聖徳太子が寺と薬師如来像を造ることを誓願したものの果たせず、丁卯年(607年)に推古天皇と聖徳太子の命を受け、仕え奉った(実行した)」旨、刻まれています。

 今日まで主流の解釈では、「寺」を「法隆寺」、「仕奉」の内容を「法隆寺建立と薬師如来像の製作」としてきました。このように解釈されることは、この薬師如来像を造らせた藤原不比等の意図したところでした。

 ところがこの文章には「寺」と書かれているのみで「法隆寺」とは書かれていませんし、よく読めば「仕奉」の内容に寺が含まれていない可能性もあります。確実に読み取れるのは、現に文字が刻まれている「薬師如来像の製作」だけなのです。

16.時間差効果

本薬師寺跡

 法隆寺完成は、中門の使用木材伐採年が699年であることから見て705年頃のはずです。その頃、光背を見る人は限られているとは言え、聖徳太子が「法隆寺」を建てたと書けば見え透いた嘘になります。

 一方、「寺」ならば斑鳩寺を連想する人がいたとしても、「斑鳩寺とは関係なく、薬師如来像だけ造った」と説明すれば斑鳩寺の汚れと切り離せます。当時の人は、聖徳太子が造らせた有り難い薬師如来像を、焼けた斑鳩寺以外のどこかの寺から移したと解釈したはずです。

 斑鳩寺を知る当時の人の目さえごまかせば良かったのです。斑鳩寺のことを知る人がいなくなればその汚れも忘れ去られます。日本書紀を読んだところで斑鳩寺と法隆寺の繋がりについては何も書いていません。

 全焼記事が疑われようとも何の問題も起こらないのです。光背銘文は、当時の人の目をすり抜け、後世の人に対して太子との縁を深め法隆寺の価値を高める効果を発揮するよう計算された巧妙な文章だったのです。

17.建設中断の謎

本薬師寺東塔礎石

 最後にもう一つの論点です。

 昭和の解体修理で塔の構造部分から風雨にさらされた痕跡がみつかりました。建設が中断し放置されたとみられます。先に五重塔の第二層雲肘木の伐採年を673年と書きましたが、その後のことです。

 丁度、天武天皇の時代(673〜686年)が中断時期にあたります。天武天皇は、法隆寺建設の熱意がなかったのでしょうか。

 私は色々考えてみたのですが、藤原京の造営、本薬師寺(もとやくしじ)の建設を優先した結果に過ぎないと結論を出しました。

 本薬師寺は、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って建立したものです。藤原京右京八条三坊全域を占める巨大な寺でした。正確に都の区画に合わせて立地しますので、藤原京の建設も同時期に進められていたことが解ります。

 藤原京は日本最初の恒久的首都として建設が始まったもので、その後の平城京や平安京より面積が広かったことが発掘で判明しています。本薬師寺は、薬師寺(奈良市西ノ京町)とほぼ同規模で、平城京遷都後も11世紀までこの地(奈良県橿原市城殿町)に残りました。

第53話終わり

写真1:道路角度の変更(法隆寺東大門西側から夢殿を望む)
写真2:釈迦三尊像(法隆寺パンフレット)
写真3:薬師如来像(法隆寺絵葉書)
写真4:本薬師寺跡
写真5:本薬師寺東塔礎石