第53話 法隆寺と斑鳩寺<前編>

投稿日:2015年1月16日

 法隆寺は日本のみならず世界最古の木造建築です。創建は推古朝(すいこちょう)とされてきましたが、日本書紀に焼けたという記述があるため、再建されたか、創建当時のままかという論争が明治時代に起きます。

 昭和14年(1939年)の発掘調査の結果、推古朝に建てられた寺院跡が現在建っている法隆寺の隣接地から発見されました。2004年には焼けた壁画片も発見されました。これを以て、再建説が確定したとされます。

 しかしこれは「再建されたか」という問いがあったが故に、推古朝に建てられた寺院跡を何の疑問もなく「法隆寺」と考えてしまった過ちでした。寺院跡を残した寺と現法隆寺、二つは名称も異なり、性格も異なる別の寺だったのです。

1.斑鳩寺

 法隆寺が本尊としてきた薬師如来像の光背に、「用明天皇の治世丙午年(586年)、後の推古天皇と聖徳太子が寺と薬師如来像を造ることを誓願したものの果たせず、丁卯年(607年)に推古天皇と聖徳太子の命を受け、仕え奉った(実行した)」旨、刻まれています。

 これが推古朝創建の根拠です。ただ、「寺」と書かれているのみで「法隆寺」とは書かれていません。

 日本書紀の記事に「法隆寺」は1箇所のみ。670年4月「災法隆寺一屋無余」(法隆寺が全焼した)です。

 一方、「斑鳩寺」(いかるがじ)の記述は2箇所あります。669年冬「災斑鳩寺」(斑鳩寺が焼けた)と、643年に山背大兄王(やましろのおおえのおう。聖徳太子の子)一族が集団自決した場が「斑鳩寺」です。

とするならば、推古朝に建てられた寺が「法隆寺」であったとする根拠は、日本書紀の1箇所しかありません。おまけにこの記事は、法隆寺使用木材の年輪測定から事実ではないことが判明しています。これについては後に述べます。

 日本書紀の「斑鳩寺」に対応可能な寺院跡は、法隆寺に隣接した遺跡だけです。即ち、推古朝に建てられたのは斑鳩寺だったのです。

2.伽藍配置

四天王寺

 発掘調査の結果、斑鳩寺は門・塔・金堂が一直線に並んでいたことが判明しています。これは同じく聖徳太子が建てたとされる四天王寺(大阪市天王寺区)と同じです。

斑鳩寺伽藍配置:
(*は回廊)
******
* 金堂 *
*  塔   *
** 門 **

法隆寺伽藍配置:
*******
* 塔 金堂 *
***門***

法隆寺

 法隆寺は、門から見て左に塔、右に金堂。塔と金堂は横並びです。この先行事例として法輪寺(ほうりんじ。奈良県生駒郡斑鳩町三井)、後の例として法起寺(ほっきじ。奈良県生駒郡斑鳩町岡本)が挙げられます。

 法起寺は塔と金堂の左右が逆転しています。何れも法隆寺の北東徒歩圏内にあり、聖徳太子の子・山背大兄王と縁が深い寺です。寺名の最初に「法」の字が付いている点でも同じ系統と考えられます。

 余談ですが、梅原猛氏が「隠された十字架」(昭和47年(1972年))の中で法隆寺の門の柱数が5本と奇数で、入り口真ん中に柱が立つ理由を聖徳太子の怨霊(おんりょう)を封じ込める為だと主張し、それを今も信じる人が多いようです。

 これに対して、武澤秀一氏が「法隆寺の謎を解く」(2006年、ちくま新書)で、中央の柱の左側が塔に対する入り口で、右側が金堂に対する入り口であり、その先行形態として百済大寺(くだらおおでら。桜井市吉備の吉備池廃寺)では回廊に各々の門があったことを論証されています。

3.斑鳩寺創建理由

法輪寺

 斑鳩寺遺跡の東側に斑鳩宮(いかるがのみや)がありました。聖徳太子は601年より建設を始め、605年に遷(うつ)っています。斑鳩寺金堂は、少なくとも太子が亡くなる頃までに完成したはずです。

 後にも述べますが、太子が亡くなった翌623年、太子等身の釈迦三尊像(しゃかさんぞんぞう)を造って安置したとみられるからです。

 推古天皇と聖徳太子は、実権を握っていた蘇我本家の影響下から少しでも逃れる目的で飛鳥から離れた斑鳩に宮を移し、天皇家を中心とした政治を行おうとしました。

 当時中国は隋(ずい)王朝の最盛期。仏教治国策(仏教を使って国を治める政策)が行われていました。都の大興にはその中心として立派な寺・大興善寺が建てられました。日本にも仏教治国策を導入すべく、その中心として斑鳩寺を建設したものと私は考えます。

 都・大興に大興善寺、都・斑鳩に斑鳩寺。都の名と寺の名が一致する点も共通です。この政策は百余年後の奈良時代、「鎮護国家」(ちんごこっか)の理念の下、総国分寺として東大寺、日本全国に国分寺が建てられ結実します。

4.遣隋使

法起寺

 中国の歴史書・随書(ずいしょ)の東夷倭国(とういわこく)の条には次のように書かれています。

 「大業三年、其王多利思比孤(タリシヒコ)遣使朝貢。使者曰聞海西菩薩天使重興仏法、故遣朝拝、兼沙門数十人来学仏法」(607年、倭王タリシヒコは、中国の皇帝が仏法を盛んにしていると聞き、使者を派遣すると共に、仏法を学ぶ者を数十人同行させた)。

 五、六十人もの仏僧を一気に養成しようというのです。日本最初の本格的な仏教寺院・飛鳥寺建立が蘇我馬子により発願されてからまだ20年。天皇家も試しに寺院を建てようとしたと考えがちですが、そのレベルを超えています。

 日本書紀には書かれていませんが、随書には大業三年の7年前、600年に最初の遣隋使のことが記録されています。

 聖徳太子は百済から随の情報を入手し、600年に直接遣隋使を派遣して調査、607年に仏教治国策を導入する明確な意図のもと仏法を学ぶ者を数十人同行させたことが推測できます。

 数十人といえば、おそらく全国に国分寺を建てる計画があったのでしょう。遣隋使は、600年から随が滅ぶ618年までの間に少なくとも5回派遣されており、仏教治国策や先進制度の導入に驚くほど積極的であったことがうかがえます。

 ところで607年は推古天皇15年ですが、「タリシヒコ」の「ヒコ」は「彦」のこと。即ち男性です。女帝であることを隠したのか、聖徳太子が事実上の王(天皇)だったのか、そんな疑問も浮かびます。

5.「以和為貴」

飛鳥の猿石(欽明天皇陵西、吉備姫王墓)

 斑鳩宮は斑鳩寺の東側と書きましたが、東西軸は北東方向に20度ずれています。その時代の土地区画は現在の法隆寺東大門と夢殿(ゆめどの)を結ぶ道路に残っています。その道路の西への延長上7百メートルに藤ノ木古墳があります。

 藤ノ木古墳に葬られたのは二人。欽明(きんめい)天皇と蘇我小姉君の間に生まれた穴穂部皇子(あなほべのみこ)とその夫人と思われます。推古天皇は穴穂部皇子の異母兄妹。聖徳太子は穴穂部皇子の甥(おい)にあたります。二人は蘇我と物部の抗争の中で殺されました。

 斑鳩宮を選定する時点で既に穴穂部皇子の墓がありました。宮と古墳は一直線の道路で結ばれていたはずで、それを遮るように宮の西側隣接地に斑鳩寺を建てました。

 斑鳩寺の建設は慰霊の意味が込められていたことは間違いありませんが、蘇我と物部の抗争を悔い、平和共存を願う大きな概念がそれを包み込んでいたはずです。

 日本書紀に書かれた十七条憲法は太子没後の創作とされていますが、第一条冒頭の「以和為貴」(わをもってとうとしとなす)の理念こそ太子が目指した仏教治国策の概念そのものだったと私は考えます。その背景を次に見てみましょう。

6.蘇我と物部の争い

見瀬丸山古墳(蘇我稲目墓)説明パネル

 5世紀、応神天皇に始まる王朝は物部(もののべ)氏が天皇でした。5世紀末、物部王朝が衰えを見せます。526年、越前と近江を拠点とした継体(けいたい)天皇が奈良盆地に入ります。

 継体天皇の血筋が蘇我氏です。物部と蘇我、何れも中国系の秦氏(はたし)の血を引く王家でした。中国最初の統一王朝・秦(しん。前221〜前206年)の時代、朝鮮半島南東部に移住した中国の人々が、4世紀の新羅(しんら)建国に伴い百済(くだら)経由で九州、そして大和に入ったのが物部氏。

 半島から直接越前に移住したのが蘇我氏。何れも鉄と文明を背景に日本を支配する勢力になったのです。先に引用した隋書東夷倭国の条の続きには、倭(わ。日本の蔑称)を「秦王国」とも書いています。

 継体天皇の没後、物部との抗争を経て、物部の血が半分入った欽明、次いで敏達(びだつ)天皇が位につき、蘇我と物部の勢力が拮抗しながらも46年間平和が保たれました。

 敏達の後、欽明天皇と蘇我の娘の間に生まれた、蘇我の血を四分の三受け継ぐ用明(ようめい)天皇が585年に皇位を継いだところでバランスが蘇我に傾きました。争いが再燃します。

蘇我堅塩姫

7.物部氏の滅亡

 穴穂部皇子は皇位を狙う為に物部守屋(もりや)と結んだと書かれています。物部の起死回生策とすれば穴穂部皇子に娘を嫁がせることを考えたはずです。子ができれば物部の血は八分の五に回復します。

 日本書紀には書かれていませんが、物部の娘を夫人にしていたと私は考えています。587年、蘇我本家により物部守屋と穴穂部皇子は殺されます。次に皇位に立った崇峻(すしゅん)天皇は592年に暗殺されます。

夫人は物部の娘だったようです。物部氏は滅亡し、蘇我の世になりました(第36話「藤ノ木古墳」2013年6月)。

8.聖徳太子の血

 蘇我氏にとって物部というライバルがいなくなれば物部の血は不要ですが、崇峻の後も物部の血が入った天皇を傀儡(かいらい)として擁立しました。史上初の女帝・推古天皇です。推古を補佐したのが聖徳太子です。

 聖徳太子は異母兄妹の用明天皇と穴穂部皇女の近親婚で生まれた子です。出生は574年。物部氏滅亡の前です。蘇我と物部の対立の結果、妥協の産物として双方の混血の「天皇家」の概念が生まれ、その頃には既にこれ以上蘇我の血の比率を高めたくない、物部の血を維持したいという意識が働き、近親婚を選んだものと思われます。

 太子が13歳の時、叔父の穴穂部皇子が殺されます。18歳の時に叔父の崇峻天皇が殺されます。何れも母の同母兄弟でした。太子の父母、叔父、叔母、そして本人も蘇我の血が四分の三、物部が四分の一でした。

 物部氏の滅亡によって蘇我本家対天皇家という対立の構図が更に明確になりました。傀儡にすぎない推古天皇ですが、補佐する聖徳太子と固く団結し、仏教治国策で蘇我本家に対抗したのです。

<前編>終わり

写真1:四天王寺
写真2:法隆寺
写真3:法輪寺
写真4:法起寺
写真5:飛鳥の猿石(欽明天皇陵西、吉備姫王墓)
写真6:見瀬丸山古墳(蘇我稲目墓)説明パネル