Toyotomi Hidenaga:The Foremost Trusted Aide – and the Sake That Bears His Name
豊臣秀長公:兄を支えた稀代の「名補佐役」と清酒「豊臣秀長」
序章:分断から統一へ
唐から導入された律令制度は国家が全国の土地を所有し、口分田(くぶんでん)を人々に貸し与える制度でした。
律令体制は荘園の発達により浸食されました。更に12世紀から13世紀にかけて貨幣経済が発達して鉄製農具が普及し、口分田耕作では
なく新田開墾を行う自作農、即ち新興自作農民が増加し律令制は崩壊しました。
朝廷は平安時代後期から国家警察も国軍も持たなくなりましたので、国司も荘園も自作農民も各々自衛の為に武装する中、自作農民は
団結すべく天皇の血を引く源氏を担ぐ、所謂「鎌倉殿と御家人の体制」を創り出しました。
14世紀はその体制が「室町殿」を担ぐものに替わりましたが、日本は朝廷の勢力の及ぶ範囲と室町殿の支配する範囲、その何れにも属さない範囲に分かれ分断の状態に到りました。
16世紀後半、日本国を再び統一しようとする人物が生まれました。
織田信長です。
その配下で着々と出世し実力を蓄えた人物が豊臣秀吉です。その弟秀長は兄秀吉を支えて奮闘しました。
豊臣秀長公:兄を支えた稀代の「名補佐役」
秀吉は本能寺の変の後、程なく事実上の天下人になります。1585年(天正13年)、秀長は大和・和泉・紀伊の三カ国百万石を治める拠点として郡山城を築き、興福寺や高野山など寺社勢力の影響が色濃く残る畿内の中心地で豊臣政権を支えます。興福寺の門前町である奈良町での商売を禁じ、郡山城下に商人を集めたのもその一環です。
秀長が郡山入城の翌年、秀長は大友宗麟をもてなし「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べたと大友家文書録に書かれています。秀長は兄秀吉を支え、秀吉の補佐役として活躍していました。
豊臣政権の補佐役としての秀長の役割にいち早く着目したのが堺屋太一(1935-2019 本名は池口小太郎。通産官僚を経て作家。
経済企画庁長官、内閣特別顧問等を歴任)です。
「豊臣秀長 ある補佐役の生涯」(PHP研究所)を出版し、1996年のNHK大河ドラマ「秀吉」の原作になりました。
中谷酒造では、この大河ドラマ放送に合わせて大和郡山市お城まつりを盛り立てる為に清酒「豊臣秀長」を発売し、そのラベルデザインは今日まで続いています。
The castle town established by Toyotomi Hidenaga and its related sites that live on today.
豊臣秀長が築いた「百万石」の城下町と、
今に息づくゆかりの地
豊臣秀長は戦国武将・筒井順慶が築いた郡山城を拡張し、今日我々が目にする郡山の街を築き上げました。
金箔瓦が葺かれた天守台、それを囲む濠、城郭の内堀、その南東に拡がる城下町、それら全てを取り囲む外堀。
和泉、紀伊を含む百万石を統治する規模のものです。天守台の石垣には地蔵や墓石、古代建築の礎石などの転用石も用いられていますが、地元勢力の制圧と全国再統一の勢いを感じられます。

城下町には大工町、綿町、紺屋町、材木町、魚町、堺町など当時の町名が残ります。源九郎稲荷は、豊臣秀長が郡山城築城にあたって守護神として吉野から遷したものです。源九郎の名は源義経から贈られた名で、その経緯は文楽と歌舞伎の「義経千本桜」に描かれています。今日も著名人を含む役者が訪れ、日本三大稲荷とも称される所以です。
秀長が愛した食と芸術
柳一丁目の菊屋では秀吉、秀長に菓子を献上したとも伝わります。
それが城之口餅(しろのくちもち)です。赤膚焼は、秀長の時代に茶器として用いられるようになったとされています。
※「城之口餅」は、豊臣秀長が菓子屋「本家菊屋」の初代・治兵衛に、秀吉をもてなす茶会用の菓子を命じたことが由来です。治兵衛が考案した粒餡を餅で包み、きな粉をまぶした菓子は秀吉が「鶯餅」と名付け、これが城之口餅の原型 となりました。
秀長の菩提寺は新中町の春岳院。寺名は戒名の「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」に因みます。毎年4月に秀長公供養が行われます。墓所は箕山町に大納言塚として残ります。
The Evolution of “Toyotomi Hidenaga” Sake in a Historic River Port.
歴史を運んだ河川港に息づく清酒「豊臣秀長」の進化

中谷酒造本社のある番条町は大和川水運の河川港があった場所です。百メートル東に下つ道(しもつみち)という藤原京から平城京へ遷都の物資輸送の為に造られた南北一直線の道路が今日も通りますので、平城遷都時には既に西日本各地から平城京に物資を運ぶ拠点として整備されたと推測されます。
番条町は環濠集落としても有名ですが、今日残る集落の形は清酒発祥の地とされる正暦寺、それは興福寺の清酒工場だったのですが、その酒樽を積み出す港として興福寺により15世紀に整備されたまま今日に残っています。
秀長の時代も番条は郡山城下町の物流を支える港として機能していました。中谷酒造は15世紀に興福寺の下、番条を治めていた番条氏総領家の城館跡に建っています。城館を取り囲んだ濠の一部も残ります。
堺屋太一の著書「豊臣秀長 ある補佐役の生涯」が基になったNHK大河ドラマ「秀吉」放送を機会に生まれた清酒「豊臣秀長」。2026年にNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で30年ぶりに秀長が主役となり、これを契機に清酒秀長も進化を遂げました。秀吉が夢見た中国大陸で、関連会社・天津中谷酒造有限公司に於いて、六代目当主である中谷正人自身が麹作りを行い、純米吟醸酒にしたものです。吟醸香の豊かな充実した風味に仕上がっています。
清酒 豊臣秀長と、ゆかりの赤膚焼のご紹介
30年ぶりに主役となる豊臣秀長公に思いを馳せ、進化した豊臣秀長 磨き6割と、秀長の時代から愛される赤膚焼をぜひ。


