第二章 物部王朝<中編>

投稿日:2017年10月10日

12.磐之媛

 葛城ソツヒコは百済の王であり、日本・百済の同盟を強化する為に仁徳天皇(16代にんとく)はその娘・磐之媛(いわのひめ)を皇后にしました。磐之媛はどのような人だったのでしょう。磐之媛は仁徳との間に三人の皇子をもうけますが、天皇が応神天皇の娘・八田皇女(やたのひめみこ)を宮中に入れたことを恨み、筒城(つづき。京都府京田辺市)の韓人・奴理能美(ヌリノミ)の家に入り(古事記。日本書紀では地名のみ)、そこで亡くなります。因みに新撰姓氏録によればヌリノミは百済人です。葛城部以外にも百済の拠点があったことが解ります。

 これは磐之媛の嫉妬とされてきました。政略結婚の目的は、婚姻そのものによる宥和のみならず、その間に生まれた子に次世代を継がせて均衡をとることです。双方の血を引く後継者を確定させる必要があり、そのために他の可能性を封じるのは当然です。磐之媛は嫉妬したのではなく、怒ったのです。結局、仁徳と八田皇女との間に子は生まれませんでした。

家系図

13.番狂わせ

 反新羅で一致する日本と百済の血の結束が実現し、百済王家の血を半分受け継ぐ履中(17代りちゅう)、反正(18代はんぜい)、允恭(19代いんぎょう)の三兄弟が順に天皇に即位しました。そして次の世代。新羅という共通の敵が存在し続ける以上、その結束を強固なものにする必要があります。次の系図の上部をご参照下さい。

家系図2

 履中天皇は百済から黒媛を娶り、その間に市辺押磐皇子(いちのへのおしわのみこ)が生まれました。市辺押磐皇子は天皇の最有力候補です。その市辺押磐皇子も百済からはえ(草冠に夷)媛を娶ります。

 二人の間には二人の皇子が生まれました。百済との関係は順調です。このままバラ色の友好の道が将来に向かって伸びているように思えました。ところが番狂わせが起きます。百済王女と結婚していない允恭天皇の皇子・安康(あんこう)が天皇に即位するのです。

 なぜ番狂わせと言えるのか。それは日本書紀に「安康は市辺押磐皇子に継いでもらおうと考えていた」と書かれているからです。書く必要のないことを安康没後の雄略の記事(即位前10月)に織り込んでいます。本音がそんな形で残ってしまったのでしょう。後に安康の身に起きる悲劇もそれを裏付けています。

14.安康天皇の悲劇

 天皇の妻には百済王女。その間に生まれた皇子が次期天皇。これが続けば、始祖王・応神の血は薄まるばかりで何れ天皇は百済王の濃厚なる親族になってしまいます。天皇家に危機感が高まったことは想像に難くありません。その危機感が安康即位に繋がったはずです。

 安康天皇の母・忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は応神天皇の孫。応神の血を1/4引いています。従って安康は応神1/4、百済1/4。百済の血が薄まった上に母が応神系だけに百済の影響力は低下します。百済大使は何としても安康の皇后を百済から出そうと考えたことでしょう。

 ところが安康は、同父同母姉の長田大娘(ながたのいらつめ)を皇后にします。13.番狂わせの系図の下の部分をご参照下さい。長田大娘は仁徳天皇の子・大草香皇子と結婚したのですが(近親婚の例として16.百済への対抗策の表に掲載)、未亡人になっていました。

 夫であった大草香皇子は、同母妹の若日下部王と大長谷王(おおはつせおう。後の雄略天皇)の結婚(近親婚の例として16.百済への対抗策の表に掲載)をめぐって誅殺されたと古事記には書かれています。

 古事記によれば長田大娘は安康の同父同母姉ですが、日本書紀では履中天皇の皇女です。古事記は日本書紀に先立って編纂されましたので「同父同母姉」は事実であり、その後日本書紀で修正されたと思われます。近親婚は先進国・中国では儒教的倫理観から忌避されていました。先進国の仲間入りをしようと初めて国の正史・日本書紀の編纂を進めているのに、天皇が同父同母姉と結婚したと書けば後進国であることを宣伝してるようなものだからです。

 即ち、これ以上百済の血を入れず、応神の血を薄めない為に近親婚で次期天皇をもうけようとしたのです。

 後に安康は皇后の連れ子の眉輪王(まよわおう)に暗殺され、安康の企ては潰えます。私には眉輪王の背後に百済大使の影が見えます。

15.軽皇子の悲劇

 読者の中には天皇家が同父同母姉弟で結婚するなどあり得ないと感じた方がおられるかもしれませんが、私が上記結論に達したのは同時期にもう一つの事例があるからです。13.番狂わせの系図の中程をご参照下さい。

 安康天皇が即位する前のことです。安康の同父同母兄・軽皇子(かるのみこ。軽太子)は允恭天皇の第一皇子でした。軽皇子は同父同母妹の軽大娘(かるのいらつめ。軽大郎女)との近親婚をとがめられ、皇太子を廃され伊予に流されたと古事記は記します。例によって日本書紀では修正を加えています。実際には次期天皇に確定した軽皇子が、これ以上百済の血を入れず応神の血も維持する為に近親婚を企てたところ、百済大使がそれを阻止したと考えるのが素直です。

 軽大娘の別名は衣通姫(そとおりひめ)。美しさが衣を通して輝き出る絶世の美女ということです。無念の死を遂げた皇女を鎮魂するための美化と思われます。

16.百済への対抗策

 まだ信じられない、という方のために少し後の事例も挙げましょう。

 蘇我王朝(26代継体天皇に始まる王朝を筆者はこう呼ぶ)では舒明天皇(34代じょめい)と皇極天皇(35代こうぎょく)の同父同母兄妹婚がありました。二人の間に生まれるのが天智天皇(38代てんち)です。ここでも日本書紀が修正する前の記録が古事記に残っています(第三章4.五世代目を御参照下さい)。蘇我、物部という両王家は同族であり(本章25.継体の素性にて述べます)、血を守る為なら近親婚も厭わない文化を持っていました。

 次に物部王朝の王家の近親婚(含いとこ、姪、叔母)をまとめました。左は初代応神天皇からの世代数です。

世代 天皇/皇子 婚姻相手 結果
第二 仁徳天皇(16代) 異母妹 八田皇女 子ができず
第三 允恭天皇(19代) いとこ 忍坂大中姫 安康と雄略を得る
大草香皇子 長田大姉 誅殺される
大長谷王(21代雄略) 叔母 若日下部王 結婚未遂(即位後結婚)
軽皇子 同父同母妹 軽大娘(衣通姫) 流罪になり心中
第四 安康天皇(20代) 同父同母姉 長田大姉 暗殺される

 百済の影響力を強めようとする百済大使と対抗する方法は、百済王女以外の妻を娶れば足りるはずですが、問題は日本と百済のバランスです。近親婚により始祖王・応神の血をより濃く残す方法を取らざるを得なかったことが解ります。

第二章<中編>終わり