第十五章 鏡を割った思想

投稿日:2019年2月10日

桜井茶臼山古墳(墳丘長207m)

 日本経済新聞2010年2月13日朝刊の文化面に次の記事が載りました。

 「81面以上の青銅鏡が副葬されていたことが判明し、初期ヤマト政権の威容を物語る資料として注目される桜井茶臼山古墳(奈良県桜井市、3世紀末〜4世紀初め)。謎の一つが、出土した鏡がすべて小さな破片だったことだ。権威の象徴だった鏡がなぜバラバラにされたのか。”お宝”を巡る盗掘者の意識の違いが理由ではないか、との見解が浮上している。(以下、本文略)」(奈良支局長 竹内義治 大阪社会部 川本太郎)

 鏡は埋葬時には割れていませんでした。それは、石室の朱が鏡の断面には付着していないことで解るとしています。誰が割ったのか。薄い小片のみで、厚みのある破片や大きな破片はありません。

 このことから、「盗掘者が故意に割った」上で、「銅地金として再利用する目的だった」可能性を指摘する福永伸哉・大阪大学大学院教授の見解を紹介し、記事の一応の結論としています。

 盗人に成り代わって考えてみましょう。そのまま持ち出した方が楽に決まっているのに、わざわざ割ったりするでしょうか。破片が飛び散るとすれば、そのロスも考えなければなりません。鏡は、何か特別な意図で割られ、その後進入した墓泥棒が「銅地金として再利用する目的」で持ち出したと考えるのが自然です。鏡を割った人と持ち出した人は別です。

 誰が何の目的で墓を暴き、鏡を割ったのか。これがこの章のテーマです。

写真1:桜井茶臼山古墳(墳丘長207m)

1.太陽の道

箸墓古墳(墳丘長278m。左奥に三輪山)

 小川光三氏が発見した「太陽の道」(「大和の原像 知られざる古代太陽の道」大和書房1973年)。北緯34度32分の緯線は、東から伊勢斎宮(さいぐう)跡、箸墓(はしはか)古墳を通って淡路島の伊勢の森までを結びますが、その線上には太陽神・アマテラスに関する神社、遺跡があるというものです。

 中心となるものは、箸墓古墳です。この墓は、奈良盆地に最初に造られた大前方後円墳です。造営の時期は3世紀の三分の二が過ぎた頃です。

 「太陽の道」を箸墓古墳から太陽の昇る東に向かって検証してみましょう。

 箸墓古墳 北緯34度32分20秒
 檜原神社 北緯34度32分22秒(箸墓から1.4km)
 室生寺  北緯34度32分16秒(箸墓から6.1km)
 長谷寺  北緯34度32分 9秒(箸墓から18.5km)
 斎宮跡  北緯34度32分28秒(箸墓から72.6km)

檜原神社藁縄鳥居の内側の小さな三ツ鳥居

 先ず、檜原(ひばら)神社。元伊勢と呼ばれ、伊勢神宮が造られる前から続く太陽神祭祀の場とされるものです。現在に至るまで社殿はなく、藁縄(わらなわ)の張られた鳥居のみ。聖なる山・三輪山(みわやま)の麓で太陽を拝む場です。

 室生寺は、密教寺院として有名ですが、創建については明らかではありません。ただ、天武天皇の時代に始まったと言われています。天武天皇は、伊勢に斎宮を建設し太陽神の祭祀を始めました。

 長谷寺の創建も明らかではありませんが、寺伝ではやはり天武天皇の時代としています。

斎宮跡

 斎宮は、太陽神アマテラスを祭る巫女・斎王の住まいであり、祭祀の為の施設です。

 緯度の1秒は31mです。箸墓古墳と最も差の大きい長谷寺でも340mの違いに過ぎません。しかも何れも広大な敷地ですから一致していると考えて良いでしょう。

 箸墓に葬られた人物は、太陽信仰と密接な繋がりを持っていたと考えられます。

写真2:箸墓古墳(墳丘長278m。左奥に三輪山)
写真3:檜原神社藁縄鳥居の内側の小さな三ツ鳥居
写真4:斎宮跡

2.邪馬台国の東遷

 箸墓古墳に葬られた人物を考察するにあたり、避けて通れない話題が魏書東夷伝倭人条(ぎしょとういでんわじんじょう。通称「魏志倭人伝」)に書かれた邪馬台国がどこにあったかという論争です。

 ヒミコは魏に絹織物を献上しており、その絹織物の出土情況からヒミコは北九州の女王であったと推定されてきました。森浩一(1928-2013)氏の著書「古代史の窓」(第一章2絹の東伝)から引用しましょう。

 「布目氏(引用者注:古代繊維の研究者である布目順郎)の名著に『絹の東伝』(小学館)がある。目次をみると、『絹を出した遺跡の分布から邪馬台国の所在地を探る』の項目がある。

 簡単にいえば、弥生時代にかぎると、絹の出土しているのは福岡、佐賀、長崎の三県に集中し、前方後円墳の時代、つまり四世紀とそれ以降になると奈良や京都にも出土しはじめる事実を東伝と表現された。布目氏の結論はいうまでもなかろう。倭人伝の絹の記事に対応できるのは、北部九州であり、ヤマタイ国もそのなかに求めるべきだということである。この事実は論破しにくいので、つい知らぬ顔になるのだろう。(中略)

 布目氏は絹の東伝の背後に、絹文化をもった人の集団の移動があったと考え、邪馬台国の東遷説を支持されている。

 絹の東伝に類似するのに、銅鏡愛好の風習の東伝がある。北部九州では弥生時代中〜後期に中国人が”王”とよんだ人を含め支配者層の人たちは葬られるときに銅鏡を副葬した。しかも前原市の三雲、井原、平原などの古墳では二十〜三十枚の銅鏡を副葬している。

 これにたいして、弥生時代の奈良県域では、弥生遺跡はたくさんあり、しかも大面積の発掘がおこなわれているのに、北部九州の弥生社会でのような銅鏡副葬の風習の形跡は皆無である。御所市名柄で、多紐細文鏡一面が出土しているが、これは東北アジアで流行したもので化粧道具としての鏡ではない。

 ところが近畿地方で前方後円墳の築造がはじまり、絹が使われだすとともに、ほとんどの古墳に銅鏡が副葬されはじめ、しかも二十〜三十枚の多数の銅鏡を副葬する風習もあらわれる。

 北部九州の文化が伝わったのは事実とするほかない。その背後に集団の移動を想定すると邪馬台国東遷を考えるのが説明しやすい。こうなると、”ヤマタイ国はどこですか”にたいして”いつの時代のヤマタイ国ですか”と問い返さなければならない。」

 ところが近年の纏向遺跡発掘成果により邪馬台国(ヤマト国)は、3世紀初めにヒミコを王として新たに造られた連合国でありその首都が纏向であることが明らかになってきました。絹織物は九州で調達し魏に献上することができました。弥生時代が終わる2世紀まで、即ち漢王朝の中国にとって、倭国とはイト国(福岡県糸島地方)でした。上記三雲、井原、平原など多くの銅鏡を副葬した遺跡はイト国のものです。ヤマト国ができてから前方後円墳に銅鏡を副葬するようになりました。ヒミコはイト国の王或いは王族だった可能性があります。

吉野ヶ里遺跡

写真5:吉野ヶ里遺跡

3.7世紀末の常識

 箸墓が造営されたのは壬申の乱(672)の四百年前のことです。壬申の乱の時にもこの墓が誰のものか、当時の人々は知っていました。

 「箸墓とみてまず間違いのない古墳が、「紀」(引用者注:日本書紀)にもう一度出ている。しかも、扱いのランクがあがって「箸陵」として出ている。

 「紀」によると、壬申の乱(六七二年)のとき、戦の勝利を祈願するため、大海人皇子(のちの天武)側がイワレ彦(神武)の陵に馬や兵器を奉っているのと、三輪君高市麻呂らが上道方面で、箸陵のもとに戦っているのと、陵関係の記事が二つある。

 ぼくは前に、『想像が許されるならば、皇位争奪の争乱(壬申の乱)にさいして、いち早く始祖王の墓、および大和の王権にとって伝説のうえで由緒ある箸墓を手中におさめたり、戦勝の祈願をおこなうことは、皇位の正統性あるいはその地域にたいする支配の正統性を主張するうえで、重要な手段であったとみてよかろう』と述べたことがある。」(森浩一著「記紀の考古学」第3章箸墓伝説と纏向遺跡)

4.箸墓の主

箸墓古墳の宮内庁掲示(「倭迹迹日百襲姫」の記載)

 箸墓の主は誰か。ヤマト国ができてから最初の大前方後円墳であることから初代の王であるヒミコ墓と考えることができます。記紀によれば実質上の初代天皇は崇神ですから、ヒミコは崇神天皇であり、箸墓は崇神天皇陵ということになります。

 箸墓古墳ができたのは3世紀を三分の二過ぎた頃です。魏志倭人伝によればヒミコは正始八年(247)には既に亡くなっていますので20年程の時差があります。箸墓の前に造られた勝山古墳(墳丘長114m)、矢塚古墳(墳丘長96m)、石塚古墳(墳丘長93m)、ホケノ山古墳(墳丘長72m)という4つの小さめの古墳の何れかがヒミコ墓という可能性もありますが、先に引用した森浩一氏の指摘からすればやはりヒミコ墓と考えるべきかもしれません。

 「気になるのは魏志倭人伝に箸墓の大きさが「径百余歩」と記録されていることです。(中略)後円部径の160mを歩に換算すると、約百一歩と「径百余歩」が誤差の範疇とみなすと、魏志倭人伝の記事は、円丘の記録なので、築造過程の後円部の情報ではなかったかと想像できます。」(纏向学からの発信 第9章 小山田宏一)との記述もあります。

写真6:箸墓古墳の宮内庁掲示(「倭迹迹日百襲姫」の記載)

5.蛇と鏡の分離

 日本書紀では、ヤマトトトヒモモソ姫(以下、モモソ姫)を葬ったのが箸墓としています。モモソ姫とは何者なのでしょう。

 崇神は、山城(やましろ)のタケハニヤス彦の反乱を知ります。古事記では、崇神自身それに気付きますが、日本書紀ではモモソ姫がそれに気付き、おかげで崇神は反乱を平定することができました。予知能力、透視能力のある女性です。

 モモソ姫は大物主の妻になります。大物主の正体は実は蛇でした。その姿に驚いて声を上げたので夫は怒って人の姿に戻り、山に飛び去ります。モモソ姫は箸で性器を突いて死にます。

 大物主は三輪山の神とされています。山の神のシンボルは蛇であり、箸は蛇を表します(吉野裕子著「山の神」)。モモソ姫は蛇と交わり、箸、即ち蛇と共に死に、蛇と共に葬られたのです。箸墓、即ち蛇の墓。山の神のシンボルの蛇を葬ったということになります。

 慌ててモモソ姫のくだりを作ったのでしょう、日本書紀にのみ盛り込まれました。古事記の完成は712年。日本書紀の完成は720年です。前章で述べましたが、この頃山の神の象徴である蛇が抹殺されたのです。

 山の神は蛇でした。そして鏡(カカミ)は蛇(カカ)の象徴でした。一方、鏡は太陽神の象徴でもありました。不比等は太陽神アマテラスを皇祖神とし、鏡を神器にしましたので蛇と鏡の関係を断つ必要がありました。

 そこで、中国思想の易・陰陽五行によって山の神の象徴を蛇から猪に変えました。そして山の神と結びついた太陽信仰を始めたであろう初代天皇の墓に蛇を葬ったのです。こうして鏡を媒介として結びついた山の神と太陽神は分離され、太陽神信仰は純化されたのです。

6.割った人

 崇神王朝は約200年間続きました。この間に築造された墳丘長200m以上の大古墳数が14。冒頭の桜井茶臼山古墳もこれに含まれます。崇神王朝の日本書紀の記述は信用できませんが初代神武から14代仲哀まで14人。これと一致します。記紀編纂にあたって、大古墳の数から天皇数を決めた可能性がありそうです。

 14の大古墳の内、12は奈良県内。大阪府藤井寺市に1、岸和田市に1。14全てが王の墓ではないかもしれません。王は、ヒミコやその後継者である臺与のように女性もいたでしょうし、男王もいたかもしれません。残念なことに初代神武天皇から欠史八代を挟んで実質上の初代である第10代崇神から14代仲哀(ちゅうあい)天皇まで、記紀からこの王朝を追うことはできません。ヤマト国を継いだ物部は前方後円墳という墓形は受け継いだものの歴史は受け継がなかったようです(第八章 皇祖神アマテラスの創造 4.天武の伊勢神宮 注2をご参照下さい)。

 さて、冒頭の問いに戻ります。茶臼山古墳の銅鏡は誰が割ったのか。私は藤原不比等と考えます。不比等は崇神王朝が残した大規模な墓を暴き、鏡を割ったと思えるのです。残念なことに箸墓はもとより宮内庁が皇室陵墓に指定しているものは発掘が許されません。

終わり