第十四章 平城遷都と山の神

投稿日:2018年12月10日

耳成山を南から望む

 第九章 神器の創造と変遷では、天武天皇が編纂させた歴史書の中には蛇神である山の神信仰が含まれており、藤原不比等は記紀の編纂にあたりそれらを消したものの、スサノオの八岐大蛇(やまたのおろち)退治とヤマトタケルが伊吹山の神に敗れる部分に残ったことを述べました。本章では山の神について考察します。

香具山を西から望む

 家庭で一番エライのは、山の神。古女房には頭が上がりません。刑事コロンボも「うちのカミサン」が口癖でした。この山の神の本質に迫った好著、「山の神」(吉野裕子著)を読みました。

 古代の人々は八岐大蛇の描写に見られるように、うねうねと続く山脈に躍動する蛇の姿を見ました。円錐形の山にとぐろを巻く蛇の姿を見ました。桜井市街の東部に円錐形に突き出す三輪山(みわやま)の神は現在は大物主とされていますが、その名の「みわ」、即ち「巳輪」が示すように本来はとぐろを巻く蛇でした。大神神社(おおみわじんじゃ)が三輪山自体をご神体と捉えているのはその名残です。

畝傍山を東から望む

 古来、山の神とは「山を他界とし、そこを領する祖霊として認識され、信仰された蛇神」です。水田稲作が始まる弥生時代、「蛇を野鼠の天敵として尊重し、崇め、稲・田圃・穀倉の守護神として信仰するにいたる」。即ち、豊穣を司る田の神の性格も併せ持つようになりました。

 藤原京の内裏を囲む大和三山(やまとさんざん)は何れも円錐形で、蛇神である山の神信仰の下に都の位置を定めたものと推測できます。一方、平城京はそのような地形とは関係がなさそうです。遷都が行われた理由と背景は何か。吉野氏の助けを借りて、山の神信仰の変化と共に論じます。尚、本章の引用文は特段のことわりがない限り吉野氏の同著からのものです。

写真1:耳成山を南から望む
写真2:香具山を西から望む
写真3:畝傍山を東から望む

1.蛇から猪へ

 ヤマトタケルは伊吹山の山の神との戦いの結果命を落としますが、この山の神の化身が日本書紀では蛇です。一方、同じ場面を描く古事記では猪です。当時、山の神の神格は蛇と猪の二種類あったことが解ります。より古いと考えられる蛇に、なぜ猪が加わったのか。吉野氏は中国から伝わった「易・陰陽五行等による一種の宗教改革の結果」であることを解明します。

八掛方位図

 易の八卦(はっけ)の「山」は方位の西北、即ち戌亥(いぬい)を意味します。正倉院御物(しょうそういんぎょぶつ)石版彫刻の「戌亥の図」は猪が犬に襲いかかる図で、裏側に「山伐山代」と書かれています。「山、すなわち猪が、山の代用の犬を伐つというので、本当の山は猪であり、犬はその代用」であることを意味しています。即ち「山」は方位を介して猪(亥)と結びつけられました。

十二支月の五行配当:

十二支月の五行配当

 日本の山の神の本質は「山を他界とし、そこを領する祖霊として認識され、信仰された蛇神」ですが、豊穣を司る田の神の性格も併せ持ちます。

 山の神のシンボルを中国思想の観念的な「山」と方位を示す「亥」を結びつけて猪(亥)としたとしても「山の神」である以上、五穀豊穣の神、田の神の性格も持たせる必要があります。「山」を方位の「亥」、更に一年12ヶ月の「亥」(10月)と結びつけることによってそれが可能になります。その仕組みは次の通りです。

 「中国哲学の最大の特徴の一つは、この世のすべてのもの、すなわち有形無形を問わず一切のものを木火土金水の五気のいずれかに還元することである。」

 十二支月の五行配当をご参照下さい。木、火、金、水の各気は春夏秋冬に割り振られます(土気は、立春、立夏、立秋、立冬の前、各々約18日間とする)。各季節はそれぞれ始まりの月(生)、盛んな月(旺)、終わる月(墓)で構成されます。春(木気)なら1月に生まれ、2月に盛んになり、3月に終わります。

 更に中国思想では、各気はその前の季節に準備が始まっており(生)、後の季節に衰える(墓)という一年のサイクルを考えます。生、旺、墓の間隔は4ヶ月です。

一年のサイクル

 五穀は植物ですから木気にあたります。木気は春。卯(2月)が旺です。木気は亥(10月)に生まれ、最も盛んな卯(2月)を経て、4ヶ月後の未(6月)に一年のサイクルを終えます。

中国思想では田の神をこれら3つの月に祀ることによって五穀豊穣がもたらされるとします。一年のサイクルの中で田の神が地上に降りてくるのは亥(10月)。五穀豊穣をもたらす田の神は「亥」を媒介として猪(亥)をシンボルとする山の神になったのです。

消長卦:

1月 2月 3月 4月 5月 6月 7月 8月 9月 10月 11月 12月
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      全陽           全陰    

 易の消長卦(しょうちょうけ)の亥(10月)は全陰を意味します。全陰は全陽に対する概念で男女で言えば女です。これが女房を「山の神」と呼ぶ根拠となりました。

2.蛇を消す理由

 古来、山の神のシンボルは蛇でした。新たに猪(亥)をシンボルとする山の神を作った理由は何でしょう。それは蛇を消すためでした。この章と次の第十五章で述べますが、蛇を消す作業が意図的に行われています。誰が、いつ、何のために蛇を消したのでしょう。

 蛇を消したのは藤原不比等です。天武天皇の死後、不比等が権力を握ります。第六章で述べましたが不比等は天智天皇の子です。不比等は天武の皇后を持統天皇(41代じとう)として擁立します。

 娘を文武天皇(42代もんむ)、そしてその子の聖武天皇(45代しょうむ)に嫁がせます。即ち聖武天皇の母と配偶者は何れも不比等の娘です。その間に生まれた姫が後の孝謙天皇(46代こうけん)になります。藤原氏と天皇家の混血王朝が始まったのです。

 この王朝を正当化し、政権を永続させる為にはそれを裏付ける「歴史」を造る必要があります。不比等は古事記と日本書紀の編纂を命じました。遷都も行いました。神社建設も行いました。これら一連の事業の中で蛇神を消す作業が行われたのです。

 なぜか。それは鏡(カカミ)が太陽、即ち太陽神の象徴である一方、蛇身(カカミ。「カカ」は蛇の古語)、即ち山の神の象徴でもあったからです。太陽神アマテラスを皇祖神とし(第八章をご参照下さい)、鏡を太陽神の子孫である天皇の正統性を示す神器とするにあたり、蛇と鏡の関係を断ち切り、鏡を純粋な太陽神の象徴にする必要があったものと私は考えます。

 蛇をシンボルとする日本の山の神は、五穀豊穣という現実的な生活上の利益の共通性によって中国思想で新しく造られた山の神に取って代わられます。こうして山の神のシンボルは猪(亥)になり、蛇は消えていったのです。

 蛇信仰は影を潜めました。ただ、他界を領する祖霊としての山の神は、葬送の列の先頭の蛇や龍の飾りとして残りました。又、シメ縄や祭りの藁蛇(わらへび)、案山子(かかし。「カカ」は蛇の古語)は田の神としての蛇信仰の名残です。

 正月の鏡餅は「カカミ」、とぐろを巻く蛇の姿を表しています。吉野氏は、カミ(神)という日本語も、「カ」は蛇、「ミ」は身、即ち蛇の姿から来たと推測しています。

3.藤原京

藤原京内裏より北に耳成山を望む

 天武天皇は伊勢神宮を創建し太陽神を祀りました。藤原京は、その天武天皇が建設を始めたものです。その藤原京には蛇と結びついた山の神信仰が隠れています。太陽信仰と山の神信仰は共通の象徴である鏡を介して近い関係にあったと推測できます。詳しく見てみましょう。

 「藤原京」は現代の学術呼称であり、日本書紀には新益京(あらましのみやこ)と記されています。日本書紀には持統天皇が691年に地鎮祭を行い、694年に遷都したとあります。しかし、天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒を願って680年に発願し建立した薬師寺が、発掘の結果、正確に右京八条三坊の地に納まっていることから、天武天皇が建設を開始したことは間違いありません。

藤原京発掘現場

 新益京は中国に倣い日本初の恒久的首都として建設されたものですが、その広さは後に造られる平城京よりかなり広く、5.3km四方。東西南北に走る道路で碁盤目状に区切られており中国の都に似ていますが、大きな違いがあります。

 それは、内裏(だいり)が都の北側中央ではなく全体の中央にあること、その内裏が大和三山に囲まれていることです。北は耳成山(みみなしやま)、東は香具山(かぐやま)、西は畝傍山(うねびやま)。何れの山も円錐形で、名称も蛇神を暗示しています。「みみ」は巳(み)、即ち蛇。「かぐ」は蛇の古語「カカ」。「うねび」は「うねぶ」という蛇の動きのようです。内裏、即ち王宮は、蛇神、即ち山の神に守られていたのです。

写真4:藤原京内裏より北に耳成山を望む
写真5:藤原京発掘現場

4.平城京

平城宮朱雀門(復元)

 新益京が蛇を象徴する山に囲まれているとすれば、蛇神を消すには都を移転させるしかありません。

 大宝2年(702)、32年ぶりに遣唐使が派遣され、その二年後日本に戻ってきました。遣唐使とは言うものの彼らは唐の都・長安に行ったのではありません。周の都・神都です。

 当時、中国は武則天という中国史上唯一の女帝の時代です。武則天は唐の高宗の皇后でしたが、690年に皇帝に即位し国号を周と改めました。王朝の簒奪です。都を洛陽に定め、神都と改名して長安から遷都していたのです。

 藤原不比等はこれを利用しようと考えました。日本にも自身が擁立した持統という女帝が立っています。自身が創始者となる藤原氏と天皇家の混血王朝を周になぞらえて、その始まりを持統天皇にしようと考えたのです。周は一代限りで終わるのですが、未来のことは知る由もありません。

平城京大極殿(復元)

 持統天皇は遣周使が出発した年の暮れに亡くなっています。不比等は編纂を進めていた国史・日本書紀に持統天皇の治世を記述するにあたり、その即位年を武則天に合わせ持統天皇元年ではなく持統天皇4年(690)としました。武則天は即位年に遷都しています。

 そこで持統天皇も即位年に新益京遷都を決意し、その四年後の694年に遷都したことにします。しかし新益京はあくまでも天武が造った、蛇神に守られた都です。不比等は周を意識して新しい都を建設することにしました。それが平城京です。

 平城京のコンセプトは、藤原氏と天皇家の混血王朝の為の新しい都です。ただ、不比等は新益京の内裏を「藤原宮」と自身の姓を冠して日本書紀に記し、その時から自身が特別な存在であったことを記録に残しました。

 平城京は唐の都・長安を模して造られたのではありません。周の神都(洛陽)を範としたのです。それは平城京が神都と同じ緯度(平城宮中心北緯34度41分24秒)に建設されたことで明らかです。藤原京との位置関係で言えば、北に約20km。中心線は西に1kmずらしました。同一直線上にならないように何らかの意識が働いたものと私は考えています。

写真6:平城宮朱雀門(復元)
写真7:平城京大極殿(復元)

5.平城京の守護神

 新都には蛇に代わる新たな守護神が必要です。そして作り出されたのが、タケミカヅチです。タケミカヅチは、日本書紀の中でフツヌシと共に高天原(たかまがはら)から降臨し、葦原中国(あしはらなかつくに、即ち日本)を平定した神としました。

 平城京遷都の前年、和銅2年(709)にタケミカヅチを三笠山の麓に祭りました。これが春日大社の起源です。タケミカヅチは常陸国鹿島から勧請したことにしましたので、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)を創建しました。そしてフツヌシを祭る香取神宮(千葉県香取市)を加えました。

6.神社建設

 古来、山の神は日本中にあまねく信じられており、山の神そのものを消すことは不可能ですが、そのシンボルたる蛇を消すことは可能です。藤原不比等は新しい神話と歴史を編み、古事記と日本書紀にまとめました。

 記紀に記載された神話を可視化するために諸神を祀る施設として神社を建設して行きました。不比等は、新しいシンボルを持つ山の神の祭祀の場として、新しく創造された「神社」という形態を使うことにしたと私は考えます。

 それまで神は、祭祀の為の固定化した建物を持たずに祭られてきたのです。神社を造り、祭祀の形を創造し、諸神や猪(亥)をシンボルとした山の神を祀りました。不比等の命令の下、日本各地に神社が建てられていったはずです。

 それに協力したのが秦(はた)氏であろうと私は考えています。京都の太秦(うずまさ)には秦氏の棟梁が住んでいました。そこにある松尾大社は背後にある松尾山の山の神を秦氏の祖神として祭ります。松尾大社は701年に創建されています。日本に神社建設が始まった時期を知る大きな手がかりと考えて良いでしょう。

7.神社の変容

 8世紀初期、山の神を祭る神社建設が開始され、そこで行われる豊作祈願を通して新しい山の神、その祭り方が日本中に広まって行きました。吉野氏の言う「易・陰陽五行等による一種の宗教改革」です。松尾大社のように当初より特定の祖神、王、祖先の信仰と山の神信仰は習合していました。更に神社は、山の神のみならず生活に密着した神々を取り込みます。

 早くも奈良時代後半には神社境内に仏教寺院が建てられ神仏習合が始まります。不比等が考案した神社の形態は百年も保たなかったのです。

 神はいわゆる神前読経(しんぜんどきょう。神の前で仏教の経典を唱えること)で祀られるようになり、神は仏が化身として姿を現したもの(本地垂迹説)という考えが定着し、神と仏の融合が進みました。ほとんどの神社は仏教寺院の一部に組み込まれ、寺院が山号を持ちます。祀られる仏とそれに対応する神の数も増えました。そして江戸時代末を迎えます。

 明治初年の廃仏毀釈で寺院は破壊され、かつて神がどのように祀られていたのか、ほとんどの記録が失われました。神社は、明治維新政府の政策により太古の昔から続いている形態として再生され、今日に至っています。参拝の作法「二礼二拍手一礼」も明治政府が定めたものです。

8.不比等が残したもの

 残ったものもあります。1.蛇から猪への最後に消長卦の亥は全陰で、女性を表すことを述べましたが、女房を「山の神」と呼ぶ習慣は今日まで続いています。

 神社は鳥居も含め朱に塗られていますが、これも当初のままのはずです。一般に神社の建物は白木(しらき。塗装されず木の生地が見える状態)であったものが、神仏習合によって仏教寺院に倣って朱に塗られたとされています。

 仏教寺院が赤いのは、中国で始まった習慣が日本に伝わったものです。その中国では現代に至るまで赤に魔除けの意味があります。日本初の神社は松尾大社と私は考えますが、その松尾大社は中国系帰化人・秦氏によって創建されたのですから、神社は魔除けを意識して当初から朱に塗られたと私は考えるのです。

 「中国思想では田の神を生、旺、墓の3つの月に祀ることによって五穀豊穣がもたらされる」と考えたことを先に述べました。旧暦10月(生)、2月(旺)、6月(墓)に田の神、即ち山の神を祀る行事も日本各地に残ります。

9.山の神を迎える行事

 旧暦10月に山の神が天から降りてきます。山の神を迎える行事は奈良県山辺郡山添村、伊勢北西部から伊賀にかけての山深い村々にも受け継がれています。吉野氏は語ります。

 「(山の神を祭る行事である)カギヒキ・クラタテ(注)は一見、奇妙な行事にみえるが、これはまさに、中国古典に説かれていることの実践と受けとめられるのである。

 その折、その時期にふさわしいことをする、というのが一年を生活の単位とした場合の中国の古い教えである。

 奈良・伊賀の山中の村の奥深く、行われる旧十月の冬祭りは、時間的空間的に遠く距たった国の古い教えの多少形を変えた実践と思うとき、何時、何人が村人にこれを教え伝えたのか、何か心をゆり動かされる思いがする。」

 注:カギというのは雑木の又がカギ状になった所を切り取ったもので、カギヒキはカギを山の神の木に引きかけ、豊作を祈る言葉を唱えながら引く行事。クラタテというのは半紙を山の神の前の地面に敷いて、半紙の四隅と中央に棒を建てる行事。四隅の棒には紙の幣、中央の棒にはところ・柑子・柿などを突き刺す。(吉野裕子著「山の神」講談社学術文庫P.149〜151から大和高原奥地の豊原・波多野地区の行事を要約)

10.山の神を鼓舞する行事

郡山城址の桜

 旧暦2月は木気が最も盛んになります。桜が咲くのは旧暦2月。吉野氏は触れていませんが、桜花を愛でる習慣も山の神と関係があります。農民は集落のそばの山や丘で酒食を伴う花見をする習慣がありました。「さくら」の「さ」は田の神。「くら」は座。神が居る場所です。田の神は満開の桜の木に宿ります。花見は美しく咲き誇る山桜に盛んな木気を感じ、山の神を鼓舞し、豊作を祈る行事だったのです。

 今日、桜と言えば染井吉野(そめいよしの)。江戸時代末に開発された品種で、葉が開く前に花が満開になり淡いピンクが回りの環境と隔絶した華やかさをもたらします。明治時代以降、各地の街やその周辺に植えられ桜のイメージを一新しました。桜を愛し、大切にする心が桜の植樹を盛んにしました。農業から切り離された街の人々にとって山の神との繋がりは薄れましたが、花見を通して山の神信仰の片鱗は現代の我々にも受け継がれたのです。

写真8:郡山城址の桜

11.山の神を送る行事

 旧暦6月には田の神送り。サノボリと呼ばれる行事です。サノボリの「サ」は田の神。田の神、即ち山の神が一年のサイクルを終えて昇天するのです。田植え後の慰労の宴席を兼ねたせいか広く日本各地に残ります。民俗学者の宮本常一(1907-1981)氏が「日本の村・海をひらいた人々」に書き残した記録もこの一例のようです。

 「いまではあまり見かけなくなりましたが、西日本では、田植がすむと虫おくりといって、たいまつをたき、かね太鼓をうって、田のほとりをまわってあるく行事がありました。このとき、実盛様という人形をつくって、送ってゆく所がたくさんありました。」

 この「実盛様」は「サノボリ様」。山の神に形を持たせたものに違いありません。「虫」も田の神を象徴しています。

 「(田の)神の御姿は定まった像がなく、魚とか虫とかの形を仮りて、人に姿を見せられることがあるとも伝えられている。」(吉野裕子著「山の神」に「総合日本民俗語彙」巻二より引用)

第十四章終わり