2023年の改修にあたって

投稿日:2023年5月25日

纏向学からの発信

2023年の改修にあたって

 纏向遺跡発掘成果をまとめた最新の書物「纏向学からの発信」(桜井市纏向学研究センター編 大和書房2023年3月15日 第一刷発行)を読みました。

 同書は2013年7月から2020年2月にかけて14回開かれた纏向学セミナーで講師を務めた14人の学者の発表とその都度行われた桜井市纏向学研究センター長・寺沢薫氏との対談で構成されています。それら専門家のほぼ一致した意見は、纏向は西暦200年頃に突然現れた国家的な祭祀を行う首都の遺跡ということです。

 発掘された大型建物は弥生時代のものとは時代を画する整然性を持つ規格性の高いものです。纏向を都とした国家は西暦200年という成立時期から見て魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)に書かれたヒミコ(卑弥呼)を盟主として建てられた連合国・ヤマト(邪馬台国)と考えざるを得ないようです。ならば3世紀前半と考えられた出雲政権はあり得ず、それを滅ぼすヤマト国の東遷(北部九州を発し奈良盆地に入って都を築く神武東征)もなかったことになります。

 纏向を首都としてヤマト国が誕生するまでの経緯は次の通りです。

 弥生時代が終わる2世紀まで、漢王朝の中国にとって倭国とはイト国(福岡県糸島地方)でした(第12章 柳田康雄)。

 西暦127年に二千年に一度の驚異的な量の雨が日本列島に降って各地に洪水が起き、その直後に大干ばつ、そして30年ほど干ばつ傾向が続き弥生社会は壊滅します(第5章 赤塚次郎)。多くの集落やクニは消滅もしくは混乱し、人口は急減したことでしょう。「倭国乱、相攻伐暦年」(魏志倭人伝)、灌漑用水や食料をめぐる争いが頻発したはずです。

 そこで「共立一女子為王、名曰卑弥呼」(魏志倭人伝)。主たるクニの話し合いでヒミコを王に擁立し新しい連合国を建てたのです。気候変動は落ち着き、ヤマト国は徐々に発展していきます。ヒミコは景初二年(238)以降魏に使者を送り親魏倭王の称号を得、正始八年(247)頃に死去。ならばその20年後に纏向に築造された日本最初の大前方後円墳・箸墓はヒミコを葬ったものと考えても矛盾は生じません。

 では記紀に詳細な神話が残る出雲はヤマト国とどう繋がるのか。出雲市の西谷墳墓群4号墓はヤマト国ができる前の2世紀末に造られています。大古墳造営には大量の鉄鋤が必要です。出雲には他の地域に先駆けて製鉄技術が伝わりました。出雲は新しくできた連合国ヤマトの為に製鉄技術を伝えヤマト国を支援しました。三輪山には出雲の神・大物主を祀り三輪山の南に出雲という地名が残ります。出雲の太陽神祭祀は出雲の地名が残る枚岡神社(東大阪市出雲井町)で行われました。祭祀を担った中臣氏のおかげで出雲神話が8世紀初頭に編纂された記紀に記載されたと私は考えています。

 以上を基に改修を行いました。その箇所は次の通りです。

第一章 出雲から大和へ
 4.出雲の痕跡、5.出雲の祭祀

第二章 物部王朝
 前文

第六章 物部の血と藤原不比等
 3.藤原家の誕生

第九章 神器の創造と変遷
 2.王朝の変遷

第十一章 大和に残る製鉄神の累積
  3.出雲の国 4.出雲王朝から崇神王朝へ 6.信仰の累積 7.今日の形

第十五章 鏡を割った思想
 2.邪馬台国の東遷 3.7世紀末の常識 4.箸墓の主 5.蛇と鏡の分離 6.割った人

 これらの改修は筆者が論じた内容の根幹に影響を与えるものではありません。又、この改修に併せ多少の文言の変更を行ったことも申し添えます。

それでは、2017年7月26日に投稿いたしました「「物部」は天皇の形容詞だった!はじめに」より、閲覧頂ければ幸いです。

2023年5月20日 中谷正人