第七章 物部氏と石上神宮

投稿日:2018年4月10日

石上布留神社絵図(石上神宮絵葉書より)

 石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市街の東側、布留(ふる)山の麓にあります。

 同社の公式ホームページによりますと、「当神宮は、日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として古代信仰の中でも特に異彩を放ち、健康長寿・病気平癒・除災招福・百事成就の守護神として信仰されてきました。」とあります。

 物部氏は5世紀の応神天皇に始まる「天皇家」ですから石上神宮は国家的な祭祀の場所としてスタートしたはずです。8世紀に完成した日本書紀に「神宮」と記されたのは伊勢と石上の二社のみです。この章では石上神宮の成り立ちを解き明かします。

写真1:石上布留神社絵図(石上神宮絵葉書より)

1.歴史書の編纂

 伊勢神宮は、斎宮(さいぐう)の発掘調査から天武天皇(40代てんむ)の時代に創建されたことが明らかです。「神宮」という共通の称号から考えれば、石上神宮も天武天皇が創建したと考えられそうです。

 天武は、天皇を中心とした中央集権国家建設に邁進し、その一環として歴史書の編纂に着手します。720年に完成する日本書紀には天武天皇10年(681)に帝紀、上古の諸事を記録させたと記されています。

 又、712年に完成する古事記序文には天武天皇が帝紀・旧辞をまとめて真実を後世に伝えさせるべく編纂事業をさせ、それを稗田阿礼(ひえだのあれ)に記憶させたとあります。

 和銅4年(711)9月、元明天皇は太安万侶(おおのやすまろ)に命じて稗田阿礼の記憶を書面にするよう命じ、翌年1月に古事記が献上されたとしています。膨大な内容がたった4ヶ月で、しかも漢文で書き上げられたのです。それは古事記作成にあたって、天武天皇の時代にまとめられた内容には、一切手を加えていないという主張に他なりません。

 これら日本書紀と古事記の記事は、先ず天武天皇が編纂した基になる歴史書が既にあったこと、それに記紀を編纂させた時の権力者・藤原不比等(ふひと)が自己に都合の良いように手を加えたことを浮かび上がらせます。

天武天皇の死後、日本の政治を牛耳った不比等は、天皇を擁立する自己の権力基盤を強固なものにする為に、記紀編纂によって初代神武天皇から続く「万世一系の天皇の血筋」を偽装し天皇の権威を高めたのです。

2.天武の歴史書

 天武は歴史書の編纂を行いました。それは物部と蘇我の血みどろの争いを経た過去に鑑み、天皇家による中央集権国家建設を目指した天武にとっては王朝の正統性を主張し、権威を向上させる必要に迫られてのことに違いありません。

それならば、天武もその編纂させた歴史書の中で、自身につながる「万世一系の天皇の血筋」を主張したはずです。

 太陽神ニギハヤヒを信仰する登美(とみ)ナガスネヒコ率いる出雲王朝の後、それを滅ぼした神武と崇神天皇、5世紀の応神天皇に始まる物部王朝、6世紀の継体天皇に始まる蘇我王朝、乙巳の変(いわゆる大化の改新)、そして壬申の乱を経て天武天皇に到るまで、一貫した「天皇家」の虚構を作り上げたのは藤原不比等の独創ではなく、天武天皇が先行していたと私は考えます。

3.石上神宮に祀ったもの

 歴代天皇が継承する「三種の神器」(さんしゅのじんぎ)は、曲玉(まがたま)、鏡、剣の三宝を指します。しかし、日本書紀が書かれた時点の実態は「二種の神器」でした。日本書紀の即位の記事において神器に触れているのは継体天皇と宣化天皇、持統天皇の三天皇だけであり、しかも継承されるのは鏡と剣でしかないのです。

 天武が考えた神器は鏡と剣の二種類でした。天武は、万世一系の王、即ち「天皇」の血筋を歴史書によって創造しました。二種の神器とは、その歴代の王が連綿と継承してきた血筋の象徴として考案されたものです。

 実際には王朝は交代しており、現実に継承されてきた二種の神器というものはあり得ません。それを安置し祀る建造物を造ることによって神器の実在を虚構し、視覚的に人々に「万世一系」を納得させることを考えついたはずです。それが「神宮」と呼ばれる伊勢・石上、二つの施設だったのでしょう。

 伊勢には鏡を太陽神の象徴として祀りました。この時点ではまだ今日我々が知るところの伊勢神宮の内宮外宮はありません。祭祀を行う役所・斎宮(さいぐう)を以て伊勢神宮としたのです。「神宮」の「宮」は斎宮を指しているものと考えます。その遺跡は三重県多気郡明和町に残ります。詳しくは次の章で述べます。

 石上には剣を祀りました。石上にも斎宮があったという言い伝えが残っています。「神宮」という名称自体、斎宮があったことを暗示しています。

4.神剣の所在

摂社出雲建雄神社

 記紀によれば、皇位を象徴する神器・クサナギ(草薙)の剣は、神話時代にスサノオが退治したヤマタノオロチの尾から取り出しました。アメノムラクモの剣とも呼ばれます。

 日本書紀には天智天皇7年(668)、「新羅僧道行が盗んで新羅に持ち帰ろうとしたが、船が難破し戻った」とあります。クサナギの剣がどこに祀られていたかは書かれていません。

 熱田神宮では、熱田神宮から持ち出されたものが宮中に戻され、朱鳥元年(686)、天武天皇崩御前の病気を機に熱田に戻されたとします。しかし、その当時熱田が皇位を象徴する剣を安置し祭祀する特別な場所として存在していたとは思えませんし、その痕跡もありません。

出雲建雄神社拝殿(内山永久寺から移築。国宝)

 一方、石上神宮の摂社、出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)に書かれた由緒では、「出雲建雄神は草薙の神剣の御霊に坐す。今を去ること千三百余年前、天武天皇朱鳥元年、布留川上日の谷に瑞雲立ち上る中、神剣光を放ちて現れ、『今、此の地に天降り、諸の氏人を守らん』と宣り給い、即ちに鎮座し給う。」とあります。即ち、天武天皇治世の末年(686)に石上で祭祀が始まったということになります。

写真2:摂社出雲建雄神社
写真3:出雲建雄神社拝殿(内山永久寺から移築。国宝)

5.二種類の神剣

 天武天皇の時代、神話時代から連綿と続く皇位の象徴としてクサナギの剣が祀り始められたことを述べました。ところが、これを祀る出雲建雄神社は摂社です。石上神宮の主祭神はフツミタマ(布都御魂)という別の剣に宿る神です。これはどうしたことでしょう。

 日本書紀によりますと、フツミタマの剣は初代神武天皇が出雲王朝を征服する過程で窮地を脱する時に役立ちました。その前の神話時代、フツヌシ(経津主)とタケミカヅチ(武甕槌)が葦原中国(あしはらなかつくに。出雲、そして日本を暗示)を征服します。フツ御魂(みたま)は、フツ主(ぬし)の魂(たましい)で、フツヌシはフツミタマの剣に宿る神を暗示しています(注)。

 即ち、皇位の象徴としての神剣が二種類存在したのです。天武天皇が創建した石上神宮はこれら二つの神剣を祀る施設であったことが解ります。

注:「フツ」に充てられた漢字が「布都」、「経津」とそれぞれ異なる。記紀は漢文(中国語)で記述されており、日本語の「フツ」に漢字を充てるにあたって近い音(おん)の漢字を選んだに過ぎず、漢字の意味は必ずしも考慮する必要はない。

6.藤原不比等の概念

 平安時代、927年にまとめられた延喜式神名帳には、伊勢、鹿島、香取の三社のみが神宮で、石上が抜け落ちています。鹿島神宮にはタケミカヅチ神が祀られフツミタマの剣を神宝としています。香取神宮にはフツヌシ神を祀ります。これら二社が石上に代わってフツミタマを祀る存在になったことを示しています。

 もう一つのクサナギの剣は、前述のように熱田神宮が神宝として安置したとしており、石上の存在意義が低下したことが解ります。

 第九章と十章で述べますが、鹿島神宮、香取神宮、諏訪大社など主要な神社、祭祀の施設は藤原不比等の時代に建てられました。この点から見れば、天武が石上に祀った剣、及び祭祀の概念は、不比等が構想したものと必ずしも一致しておらず、不比等が石上の地位を他に求めたことに気付かされます。

 ここで注目したいのは日本書紀の次の記事です。

 天武天皇3年(674)8月、「遣忍壁皇子於石上神宮以膏油瑩神宝。即日勅曰元来諸家貯於神府宝物今皆還其子孫。」(天武は忍壁(おさかべ)皇子を石上神宮に派遣し、膏油で神宝を磨かせ、即日諸家の宝物を皆その子孫に返還せよと命じた)。

 壬申の乱の勃発は672年6月、天武天皇の即位は673年2月。それから一年半で石上「神宮」が完成していたはずはありません。この記事は天武が石上神宮を創建する準備の為に行った指示を記録したものです。即ち、天武が石上神宮を創建しようとした時点で、既に石上神宮の基になるものが存在していました。これを石上社(いそのかみしゃ)としましょう。

 石上社には「諸家の宝物」が納められていました。即ち、「万世一系の天皇の血筋」の存在を視覚的に訴える役割を担った社(やしろ)としては純粋性に欠けることになります。

 天武天皇は、「諸家の宝物」を放り出して神器剣を祀る「石上神宮」として再出発を図ったのです。しかし、それでも藤原不比等が意図した純粋性には達しません。石上には別の神器・十種神宝(とくさのかんだから。剣1種、鏡2種、玉4種など。詳しくは第九章で述べる)が残されたからです。

 それは今日の石上神宮が、十種神宝に宿る神霊を布留御魂(ふるみたま)として祀っていることで裏付けられます。神名の布留(ふる)は石上神宮のある山の名称でもあります。山の神と同化した十種神宝に宿る神を外すことは不可能だったに違いありません。山の神については第十四、十五章で述べます。

7.物部氏と石上社(いそのかみしゃ)

 冒頭に引用した石上神宮のホームページには「武門の棟梁たる物部氏の総氏神」とあります。石上神宮の前身である石上社は物部氏、即ち5世紀の天皇家が創建したことを意味します。又、石上神宮は、ニギハヤヒの子・宇摩志麻治(ウマシマジ)を「当神宮祭主(さいしゅ)物部氏の祖神」としています。

 太陽神ニギハヤヒを信仰したのは登美ナガスネヒコ率いる出雲王朝の人々です。九州から東征した初代天皇・神武、そして崇神天皇に滅ぼされます。出雲の人々は、古事記と日本書紀が描く神話時代の主役です。

 一方、物部氏は5世紀の天皇家です。出雲王朝、崇神王朝に続く三番目の王朝を始めました。物部氏が出雲王朝の神ニギハヤヒの子・ウマシマジを自らの祖先神とした理由は一つ。それは天武天皇や藤原不比等同様、王統の一本化により王権の正統性を高め、権力基盤を強化し、王権の永続を狙ったからに違いありません。

 即ち、被征服者の歴史を自身の歴史に組み込んで王権を強化する方法は、天武天皇や藤原不比等に先立って、5世紀の天皇家であった物部氏が行っていたのです。中国では王朝の交代を天の声による「革命」として肯定しますので、際立った対照をなす考え方が日本に始まったと言えます。それを視覚化した施設が石上社だったのです。

8.石上社の原風景

重要文化財・鉄楯(石上神宮絵葉書より)

 物部氏が石上社を造るにあたってはヤマト国が拠点とした奈良盆地東部を見下ろす位置を選びました。石上神宮境内から5世紀に造られたとみられる巨大な須恵器の甕が発掘されています。

 石上社には三種の神器の元とも言える、祖先神ニギハヤヒが地上にもたらした十種神宝を祀りました。ニギハヤヒは出雲王朝と崇神王朝共通の太陽神であり(第九章で述べます)、十種神宝は出雲王朝が崇神王朝に変わる時から物部王朝に至るまで連綿と受け継がれてきたのです。その神器を受け継ぐ物部王朝は正当な統治者です。その十種神宝の実在を視覚化するために石上社は造られたのです。

 石上社には百済王から雄略天皇に贈られた七支刀(国宝。第二章17.倭の五王を参照下さい)など王権を象徴する重要な品々も納めました。

 5世紀頃の鉄盾(重要文化財)もあります。先に引用した日本書紀天武天皇3年(674)の記事からすれば「諸家の宝物」も収納していました。それを674年に整理したとしても、物部天皇家にとって重要なものは現代に到るまで収蔵し続けたのです。

写真4:重要文化財・鉄楯(石上神宮絵葉書より)

第7章 終わり