第十一章 大和に残る製鉄神の累積

投稿日:2018年9月10日

 奥野正男氏によると、砂鉄などチタン分の多いものは高温でないと還元できないが、褐鉄鉱を原料として密閉式の炉内に木炭や原料を入れて点火し、送風をつづけると、半溶解状の海綿鉄が得られる。

 この中から良質な部分をとりだして加熱・鍛打をくりかえして純鉄を得ることができるというものである。(中略)褐鉄鉱は900〜1000度の低温でも還元できるからである。

 すでに青銅器の鋳造を行って、精度の高い銅鐸さえも製作していた弥生時代人であるから、当然おこないえたことは間違いない。ただ残念なことは、弥生時代のそうした鉄製品の遺物が発見されていないことであるが、それは、ひとつには砂鉄より精錬した鉄製品よりも純度が低いため、酸化腐食する度合いも早く、形態を遺していないからにほかならない。(中略)

 渡来系技術者によって砂鉄による精錬の方法を習得したことにより、弥生時代は終焉し、古墳時代に移行した。

真弓常忠著「古代の鉄と神々」(1997年学生社)

1.葦原中国

 真弓氏は同書の中で、鉄分の多い水流のある水辺では葦(あし)、茅(かや)、薦(こも)などの根のまわりに褐鉄鉱の塊ができ、やがて植物が枯れ、褐鉄鉱の中空の固まりだけが残るとします。

 中空の固まりの中には小片が混じるものがあり、それを振ると音がすることから水辺で採れる褐鉄鉱そのものを「スズ」と名付けたであろうことに同氏は気づきます。果物などがぎっしり実った状態を「すずなり」といいますが、自然界に「すずなり」という状態があってこそ生まれる言葉であることも指摘されています。

 記紀によりますと出雲の別名は、葦原中国(あしはらなかつくに)です。この「葦原」は褐鉄鉱が生成しやすい場所です。褐鉄鉱を鉄の主原料としていた弥生時代においては「鉄資源の豊富な国」を意味していたに違いありません。やがて偉大なる大国主(おおくにぬし)の下、砂鉄による新たな製鉄技術を得た出雲の国は栄えます。「鉄は国家なり」は、弥生時代にも通じる言葉だったのです。

2.鉄と国の始まり

 真弓氏は、渡来系技術者による砂鉄精錬の開始が古墳時代の幕を開いたことを指摘しています。

 鉄器の普及は当時の主食・米の生産性を一気に高めました。鉄は、鋤(すき)や鍬(くわ)先になり田を深く耕せるようになります。稲の根は深く張り、多くの収穫をもたらしました。

 収穫時、それまでの石包丁による穂先刈りに替えて、鎌で根本近くから刈り取ります。翌年深く耕された田に水を引き、別に育てた苗を植えます。田植えの始まりです。ある程度育った苗を植えるのは雑草に対する優位性を保つためです。

 水田が拡がり、畑の面積が拡がりました。食料生産の拡大につれ人口密度が高まっていきました。

 集約的な食料生産は職業の分化を促し、複雑な社会、そして国を生み出しました。国は大きくなり、王の権力は高まり、王墓は大型化していったのです。

3.出雲の国

 記紀に描かれた神話時代の中心は出雲です。出雲では鉄製農具により農業生産性が向上し、人口が増えました。鉄剣、鉄の矢尻など武器の性能も上がり、葦原中国は出雲から因幡まで勢力を伸ばします。

 記紀によりますと少彦名(すくなびこな)は海の彼方から出雲にやってきて、大国主を助けて葦原中国を平定し、やがて海に去って行きます。少彦名は、製鉄技術者を伴ってやってきた渡来人を象徴しているようです。

 少彦名はなぜやってきたのでしょう。2世紀の第4四半期に気候が地球規模で寒冷化したからです。中国大陸の北方から遊牧民や騎馬民族が温暖な気候を求めて南下します。その内、今日の中国遼寧省から朝鮮半島北中部を領土とする高句麗(こうくり)を建国したツングース系民族・穢(わい)人が製鉄技術者を伴って海を渡ったものと私は考えています。その気候寒冷化の影響で、中国大陸では220年に漢帝国が滅び、三国が鼎立する分裂時代に入ります。

 砂鉄による新たな製鉄技術を得た出雲の勢力は3世紀に奈良盆地東部の纏向を首都として建国された連合国家・ヤマト(邪馬台)にその技術をもたらします(第一章をご参照下さい)。

西谷古墳群2号墓突出部(出雲弥生の森)

 島根県出雲市役所の南東2kmに広がる西谷丘陵上には弥生時代末期、2世紀末から3世紀にかけて造られた古墳群があります。その内、2号墓、3号墓、4号墓、9号墓は一辺30m以上もある方墳です。何れも四隅(よすみ)が突出しており、四隅突出型古墳と呼ばれます。

 この時代としては際立った規模の古墳を連続して造れたのですから、出雲では他の地域より一足早く渡来系技術者による砂鉄精錬が始まったことが解ります。

写真1:西谷古墳群2号墓突出部(出雲弥生の森)

4.出雲王朝から崇神王朝へ

三輪山

 桜井市街の東、円錐形の三輪山の麓に大神神社(おおみわじんじゃ)があり、三輪山を神体とします。ここに祀られる神は出雲の神。大国主の分身である大物主(おおものぬし)です。

 その境内、北側にある狭井神社(さいじんじゃ)の祭神は、大神荒魂(おおみわあらみたま)、大物主、ヒメタタライスズ姫、セヤタタラ姫、事代主です。事代主は大国主の息子です。そして二柱の姫の名は何れも「タタラ」(製鉄炉)を含みます。おまけに「狭井」は、鉄の古語「サヒ」から来ていると見られ、サヒ神社。即ち鉄神社です。

狭井神社

 記紀によりますと、九州から東征してきた神武が奈良盆地に入り、初代天皇になったとします。崇神王朝の始まりです。日本書紀ではセヤタタラ姫と大物主の間に生まれたヒメタタライスズ姫を初代天皇・神武(じんむ)が娶ります。これが王朝間の接続神話であり製鉄祭祀の継承を意味することは第九章で述べました。この神話を視覚化した施設が狭井神社のようです。

 崇神王朝はヤマト国(邪馬台国)です。出雲から製鉄技術が伝わり、3世紀半ば頃までに勝山古墳(墳丘長114m)、矢塚古墳(墳丘長96m)、石塚古墳(墳丘長93m)、ホケノ山古墳(墳丘長72m)が纏向の地に築造されます。そして3世紀が三分の二を過ぎた頃、規模の異なる墳丘長278mの大古墳・箸墓古墳が築造されました。その北東2kmの渋谷向山古墳(天理市渋谷町。4世紀後半頃)の墳丘長は300m、その北1kmの行灯山古墳(天理市柳本町。4世紀前半頃)の墳丘長は242m。

 古墳の規模から崇神王朝では出雲王朝を超える鉄器の普及を推定することができます。食料生産効率が高まり、国家が形成され、王墓の造営に多くの労働力を振り向ける余裕のある社会であったことを物語ります。

写真2:三輪山
写真3:狭井神社

5.穴師坐兵主神社

穴師坐兵主神社拝殿

 狭井神社から2kmほど北の、穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)の付近では鉄滓(てつさい)が発見されています。かつて三輪山北麓一帯で製鉄が行われていました。再び真弓常忠著「古代の鉄と神々」から引用しましょう。

 「古墳時代の鉄製品は、五世紀初頭を中心とした約一世紀間に構築された畿内の大古墳にもっとも多く副葬されている。それらの鉄製品が渡来系技術者集団、すなわち、韓鍛冶の指導によって製作されたことは疑いない。彼らによって古墳時代の生産はさらにいちだんの進歩を示したであろう。それをうかがわしめるのが応神・仁徳朝における河内を中心として進められた大規模な土木工事である。

穴師坐兵主神社本殿

 五世紀代、これだけの土木工事が進められるには絶対に鉄製器具が必要であり、それも舶載の鉄挺を鍛造するのではなく、この需要を賄うにたりる国内生産がなされていなければならず、そのためには、原始的な露天たたらや手吹子のごとき幼稚なたたら炉ではなく、かなり進んだ製鉄技術があったとしなければならない。その新しい製鉄技術の担い手が、イタテ神、あるいはアメノヒボコ、または兵主神を奉ずる韓鍛冶であった。」

 「兵主」は中国古代の神・蚩尤(しゆう)のこと。武器を発明したとされ、武神として日本に伝わりました。兵主神を祀るこの神社は5世紀に始まる渡来系製鉄技術者の信仰が基になっているようです。

写真4:穴師坐兵主神社拝殿
写真5:同本殿

6.信仰の累積

5世紀の鉄製甲冑(黒姫山古墳出土)

 弥生時代、三輪山を人の生死・田の豊穣を司る山の神とする信仰がありました。「みわやま」の「み」は蛇。「わ」は輪。「みわ」はとぐろを巻く蛇を意味します。山の神のシンボルは蛇。円錐形の三輪山をとぐろを巻く蛇の姿に見立て、聖なる山としていたのです。

 弥生時代末期の2世紀末、砂鉄を原料とする製鉄技術を背景に生産力が高まり、人口が増え、勢力を増した出雲の人々がヤマト国にやってきました。そして三輪山に出雲の神である大国主を祀ります。

 出雲は鉄の国。鉄は国家なり。鉄は豊かな農産物、そして豊かな生活物資を生産する基となります。大国主は鉄によってもたらされる「物」を生み出す神「大物主」とされます。大物主は、製鉄神としての性格が濃厚だったはずです。

円筒埴輪(黒姫山古墳)

黒姫山古墳模型(堺市立みはら歴史博物館)

出雲から製鉄技術を受け継いだヤマト国では今も湧き出る狭井神社境内の井戸を製鉄神の宿る場所として祭祀を行ったはずです。

 そして5世紀。北部九州からやってきた新たな勢力がヤマト国を征服します。物部王朝です。この勢力は、朝鮮半島から移住してきた秦氏など、崇神王朝より一層進んだ製鉄技術を持った人々を伴っていました。

 そして大物主とは別に、鉄と武器及びその製造を司る兵主神を祀りました。

写真6:5世紀の鉄製甲冑(黒姫山古墳出土)
写真7:円筒埴輪(黒姫山古墳)
写真8:黒姫山古墳模型(堺市立みはら歴史博物館)

7.今日の形

 8世紀初期、藤原不比等の時代、仏教寺院を参考にして神を祀る専用の建造物「神社」が造られて行きます。不比等が記紀編纂を通じて創造した神話を、現実の建物によって視覚化すると共に、山の神のシンボルを蛇から猪(亥)に変更する、一種の宗教改革を伴っていました(第十四章で述べます)。

 建造物を持った大神(おおみわ)神社が創建され大物主が祀られました。三輪山の山の神信仰は大物主と習合して今日に受け継がれました。

 現在、狭井神社は大神神社の摂社(付属する神社)ですが、当初は独立した神社として建設された可能性を私は考えています。理由は、「サヒ」(鉄)神社という名称と相まって記紀に描かれた出雲とヤマトの製鉄祭祀の継承と融和が神社の形に視覚化されています。

 物部王朝の製鉄神を祀る兵主神社もこの時に建てられたことでしょう。こうして鉄にかかわる三つの神社は、聖なる山・三輪山の麓の極めて近い距離に並存し、今日に至りました。

第十一章終わり