第十章 物部氏と善光寺

投稿日:2018年8月10日

 587年、用明天皇(31代ようめい。在位585-587)の死後、物部氏の当主・物部守屋(もりや)は蘇我馬子らによって殺され、物部氏は滅亡します。いわゆる丁未の乱(ていびのらん)です。

 その物部守屋の鎮魂施設が善光寺(長野市元善町491)であることはほとんど知られていません。本章では善光寺の本質に迫ります。

善光寺山門

 『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。

 この仏像は、仏教の受容を巡っての崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座いたしました。

 皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。創建以来十数回の火災に遭いましたが、その度ごとに、民衆の如来様をお慕いする心によって復興され、護持されてまいりました。(信州善光寺公式サイト)

写真1:善光寺山門

1.守屋柱

善光寺山門より臨む本堂

 善光寺本堂一番奥の内々陣と呼ばれる祭壇の上、左側に本尊、右側に本田善光(ほんだぜんこう)家族像。そして祭壇の中央には守屋の霊魂が宿る守屋柱があります。

 「本堂で手を合わせることは、内々陣左手に鎮座する阿弥陀如来に祈りをささげることとともに、内々陣中央に峙立する守屋柱に宿る物部守屋の霊を鎮魂することに通じる。

 また戒壇めぐりを行うことは、守屋柱を一周し、錠前、すなわち鎮魂の法具の独鈷によって守屋柱に宿る守屋の霊を封ずることに通じる。いいかえれば毎年、七百万人もの人々が守屋の霊魂を現在もねんごろに鎮め続けていることになる。」(宮元健次著「善光寺の謎」第三章物部守屋鎮魂の寺)

 善光寺は物部守屋鎮魂の為に建てられた寺です。ほとんどの参拝者はその事実を知らず、ただ阿弥陀如来の御利益を求めています。

写真2:善光寺山門より臨む本堂

2.棄仏

 日本書紀の記述では百済の聖明王が欽明天皇に贈ったのは「釈迦仏金銅像」です。それを本尊として祀る善光寺は「一光三尊阿弥陀如来」としています。金銅仏であることに違いはないのですが、釈迦如来か阿弥陀如来かの違いがあります。

 善光寺本尊は絶対秘仏で公開されませんので確認の術がありません。何れにせよ以下に述べる論点には影響がありません。先ず、それが届いた時の様子を日本書紀でたどるところから始めましょう。

 欽明天皇13年(552)10月、天皇はその仏像を幡蓋(ばんがい)、経論(きょうろん)と共に受け取った時、仏教を「微妙之法」(素晴らしい教え)と感じたものの受け容れるべきかどうか決められません(「朕不自決」)。

 そこで「群臣」に尋ねたところ蘇我稲目が肯定的な意見を述べたため、祀らせてみることにしました。稲目は向原(むくはら)の家を寺にして祀っていました。

 その後(「於後」)、疫病が流行し、物部尾輿と中臣鎌子はその原因が仏教受容にあるので棄仏(きぶつ)すべきと提言し、それを容れた天皇の命により、「有司」(家臣)は仏像を難波堀江に流し棄て、また伽藍に火を付け、焼き尽くしました(「以仏像流棄難波堀江復縦火於伽藍焼尽更無余」)。ここでは、仏像は焼かれていないことを頭に留めておいて下さい。

 通説では蘇我氏と物部氏の間で起きた崇仏論争の中で物部氏が勝手に仏像を棄てたことになっていますが、日本書紀を正確に読めばそれが誤りであることは明らかです。天皇の心は揺れており、棄仏はあくまで天皇の命によるものだったのです。

 もう一つ気になる点があります。「於後」とあるだけで、棄てた時期が明記されていないことです。百済王から贈られた極めて貴重な金銅仏です。天皇は仏教を「微妙之法」と感じ、試しに祀り始めました。仏像を棄て、寺まで焼くにあたって時期を記録しないことがあり得るでしょうか。

3.二度目の棄仏

 私の疑念を深めたのは、仏像を「難波堀江」に棄てた日本書紀の記事がもう一つあることです。

 敏達天皇13年(584)9月、百済から鹿深臣(こうがのおみ)がもたらした「弥勒石像」と佐伯連(さえきのむらじ)がもたらした「仏像」(以下、従仏と記す)を蘇我馬子が祀っていました。

 翌年、疫病が流行し、その原因が仏教受容にあると考えた敏達天皇は3月、仏法を断てと命じ(「詔曰(中略)宜断仏法」)、それに従って物部守屋自身が仏塔を切り倒して焼き、仏像と仏殿を焼きました(焼仏像與仏殿)。焼け残った仏像は難波堀江に棄てさせました。疫病と棄仏、天皇の命によることまで同じパターンが繰り返されています。

 従仏については詳細が書かれていませんが、石の仏像が燃えないことくらい誰でも解ることです。

 棄仏されるまでこれら二体の仏像を祀っていた蘇我馬子は、入手した仏舎利(釈迦の遺骨。仏教界に於ける最高の宝物)を金槌で叩いたり、水に投げ入れたりと、とんでもないことをします。おまけに馬子がこの仏舎利を心柱の基礎に埋めて建てた仏塔は、物部守屋が自身の刀で切り倒せたのですから、それくらいショボいものでした。

 仏教寺院の概念からすれば仏塔が中心になり、その回りに仏殿が建つはずですが、仏殿は「宅東方」と「石川宅」の二箇所。仏塔は「大野丘北」という別の場所です。

 この記事は、仏像を棄てた最初の記事との混同を狙ってねつ造されたように思えます。主仏として扱われる石仏に注意を引き、従仏への注意をそらす巧妙な仕掛けも盛り込まれています。その裏には重要な目的が隠されているのですが、それについては9.難波で述べます。

4.向原の場所

向原寺

 違う方向からアプローチしましょう。最初の棄仏記事では、蘇我稲目は向原(むくはら)の家を寺にして百済王から贈られた仏像を祀ったとしています。明日香村豊浦の向原寺(こうげんじ)とその一帯がその場所に当たります。

 向原寺の前身は豊浦寺(とようらじ)という尼寺でした。向原寺境内の発掘調査で出土した瓦から豊浦寺は7世紀第2四半期に建設されたことが判明しています。その下の層には掘立柱建物跡があり、出土する土器から7世紀初頭の建物跡であることも解っています。これは推古天皇が飛鳥最初の宮として築いた豊浦宮と推定されています。

 とするならば、日本書紀が寺を焼いたと記す6世紀には、豊浦寺も豊浦宮も未だ存在していません。では蘇我稲目の家が建っていたのでしょうか。

 「倭王は、土地と人とを領有・支配する一般氏族と異なり、農耕神に仕える祭主であり、その宮は神事の場であった。祭主が死去すれば、次の倭王は穢れなき土地と宮を求め、そこに遷る。高句麗・百済・新羅、また倭の氏族においても例をみない、歴代遷都の慣行が、倭において厳守されていた。」(季刊明日香風119「再考・飛鳥仏教」九州大学名誉教授・田村圓澄)

豊浦宮掘立柱抜き跡(左奥)と石敷(向原寺境内)

 豊浦は甘樫丘(あまかしのおか)の北西隣接地であり、丘と飛鳥川にはさまれた2haほどの狭い地域です。仮に豊浦宮に先だって蘇我稲目の家があったとしても焼かれた建物は穢(けが)れており、その跡地や近辺を宮殿にするはずはありません。

 即ち、豊浦宮に先だって蘇我稲目の家があったかもしれませんし、それを寺にして仏像を祀ったかもしれませんが、寺が焼かれることはなく、従って百済王から贈られた貴重な仏像が棄てられることもなかったことになります。

写真3:向原寺
写真4:豊浦宮掘立柱抜き跡(左奥)と石敷(向原寺境内)

5.江戸時代の発見

難波池(向原寺隣接地)

 明和9年(1772)、向原寺に隣接する難波池(なんばいけ)から金銅の観音菩薩像の頭部が発見されました。その像は身体部分、台座、光背が補われ、同寺に祀られています。

 この仏像について奈良国立博物館名誉館員・鈴木喜博氏は、次のように記します。

 「目鼻立ちの構成は飛鳥後期の小金銅仏(七世紀末八世紀前半)の造形感覚をなお十分に留めており」、「仏教伝来当時の百済仏ではなく、飛鳥時代後期、いわゆる白鳳期の一作と考えられるのである。」(季刊明日香風119「三十六年ぶりに戻った向原寺(旧豊浦寺)の金銅観音菩薩像について」)

向原寺金銅観音菩薩立像(季刊明日香風119より)

 普通、仏像の首を折って池に投げ捨てるなどという罰当たりなことはしません。おまけに発見された地が「向原」で、しかも「難波」池というのは出来過ぎです。「難波」といえば大阪の地名を思い浮かべますが、日本書紀に記された「難波堀江」がこの池のこととすれば、棄仏された6世紀後半と、「七世紀末八世紀前半」とみられる仏像制作年との差をどう解釈すれば良いのでしょう。

 日本書紀が完成するのは720年。時の権力者は藤原不比等。天皇を擁立する立場の藤原氏の都合に合わせて「日本書紀」という歴史を創造し、創造した歴史に合わせて現実の痕跡をねつ造していったものと私は考えます。仏像が製作された年代は日本書紀の構想を練り、編纂していた時期にピタリと重なります。豊浦寺境内の池を「難波池」と命名し、出来合いの仏像の首を折って投げ入れたのでしょう。

写真5:難波池(向原寺隣接地)
写真6:向原寺金銅観音菩薩立像(季刊明日香風119より)

6.棄仏の理由

 最初の棄仏記事は、百済王から仏像と幡蓋、経論がもたらされた点は事実かもしれませんが、後段は「貴重な仏像を棄てた」という虚偽の事実を記すために天皇の心の揺れと疫病を交えて創作した文章のようです。では、なぜ百済王から贈られた仏像を棄てたことにしなければならなかったのか。

 それは、天皇家が善光寺の為に仏像を提供したことを隠蔽する必要があったからです。既に無かったとすれば、提供しようがないということです。

 天皇家は物部氏を鎮魂する施設である善光寺には仏像を提供できません。その理由を説明しましょう。5世紀、物部王朝の時代は物部氏が天皇でした。6世紀、蘇我氏(物部王朝の創始者応神天皇の五世孫継体天皇の血筋。第二章をご参照下さい)が天皇になり蘇我王朝が始まりましたが、物部の勢力は依然強く、妥協の結果、物部と蘇我、両方の混血が天皇の血筋になります。

 天皇家には偉大なる応神天皇、物部の血が流れています。物部本家最後の当主である物部守屋は悲惨な最期を遂げており、その霊を鎮魂しなければなりません。

 ところが天皇を中心とする中央集権国家確立の為に、それは天皇を擁立する立場にある藤原不比等と藤原氏の為でもあるのですが、作られた国史・日本書紀及び古事記では、かつて天皇家であった物部や蘇我を天皇家とは次元の異なる、単なる豪族として規定しました。従って天皇家は表だって一豪族に過ぎない物部氏の鎮魂を行えなかったのです。

 天皇家は、最高の礼を尽くして物部守屋の霊を祀ろうと考えました。それには百済王から贈られた貴重な仏像が最適です。ところが仏像が貴重であればあるほど天皇家は提供できません。

 解決策が練られました。そして天皇が仏像を一旦棄てるという行為を挟んで、事後行為として善光寺に運ばれたことにしたのです。事後行為ならば天皇家のあずかり知らぬことです。

 善光寺が国家的な鎮魂施設であることも秘匿されました。善光寺が今日に至るまで物部守屋との関係について外部に明言してこなかった理由はここにあります。

7.善光寺の位置と創建時期

 日本書紀で創造された歴史の解りやすい実例は前章で取り挙げたフツヌシ神です。フツヌシはタケミカヅチと共に葦原中国(あしはらなかつくに)に天降り、大国主(おおくにぬし)に国を譲らせた神です。

 このフツヌシの降臨は712年完成の古事記には記載がありません。即ち、古事記完成以降、日本書紀完成までの8年間に創造されたことを示します。鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)にはタケミカヅチを祀り、利根川をはさんで近接する香取神宮にはフツヌシを祀りました。藤原不比等は日本書紀に記載された内容を視覚化する為に、その頃神社を造営して行ったと推定できます。

 勝者タケミカヅチを祀る鹿島神宮は常陸国(ひたちのくに)にあります。「ひたち」、即ち日が昇る地です。鹿島神宮は「神宮」が示すように神器・フツミタマの剣を神宝とする重要な神社です。

 日が沈む西にはそのタケミカヅチとフツヌシに国を譲った敗者大国主の長男であるタケミナカタを祀る諏訪大社があり、守屋山を御神体としています。そしてこの守屋山の真北に善光寺があります。これらの位置関係は、宮元健次氏が先に引用した著書「善光寺の謎」で指摘されています。

 鹿島神宮の緯度は35度57分56秒。守屋山は長野県諏訪市と伊那市の境、緯度は35度58分03秒。その差7秒は217m。誤差の範囲です。

 守屋山は東経138度05分36秒、善光寺は東経138度11分16秒とほぼ真北です。

(北)
善光寺
 ↑
守屋山←鹿島神宮(東)

 同じく冒頭の引用では、本田善光は仏像を「はじめは今の長野県飯田市でお祀り」したといい、元善光寺(飯田市座光寺2638)がその場所とされています。藤原不比等は当初そこに物部守屋の鎮魂施設を建設するつもりだったのでしょう。

 宮元健次氏にならって緯度を比較してみますと、敗者大国主を祀る出雲大社と元善光寺の南に見える神之峰が同じ緯度です。神之峰はひときわ目立つ山で、テレビ各局の中継局が設置されています。この山を「守屋山」と名付けようとしていたのかもしれません。

 古事記と日本書紀編纂にあたっては構想段階からかなりの年数がかかったことは想像に難くありません。古事記の完成は712年。両書の内容はかなり重複していますので、構想は少なくとも7世紀終わり頃から練り始められたはずです。

 その構想の下に善光寺、諏訪大社、鹿島神宮はセットで建設されました。その証拠に善光寺の創建は、出土した瓦から7世紀末から8世紀初期であることが判明しています。

 冒頭に引用した信州善光寺公式サイトでは『善光寺縁起』からの引用として「皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営」とされていますが、創建を古く見せるための創作のようです。「勅願により」と書かれていますが日本書紀同年にも造営の記事はありません。もっとも天皇家が表に立てない以上、「勅願」で造るはずもありません。

8.本田善光

 我々が善光寺で拝見するのは本尊の写しである前立(まえだち)本尊です。本尊の阿弥陀如来像は秘仏とされ公開されません。しかしながら、前立本尊を見る限り仏教伝来の頃の日本で最も古い仏像であろうことが推測できます。

創建以降、現代に至るまで厚い信仰を集めた所以です。この像を「難波堀江」で拾って運んだのが本田善光とされています。先に日本書紀の記述がねつ造であり、仏像は捨てられなかったことを述べました。善光寺の開祖・本田善光について考えましょう。

 日本書紀の7世紀後半の記事に「善光」という人物が記録されています。日本の隣国百済は660年に滅びますが、百済最後の王・義慈(599-660)の王子です。善光は人質として来日し、百済滅亡後も日本に留まり、693年(696年説もあり)に日本で生涯を終えました。亡くなった年と善光寺創建時期が符合しています。この善光が本田善光なのでしょうか。

 古代中国には一族の先祖の供養は同族の者に行わせなければ魂を鎮めることができないという考えがありました。例えば紀元前11世紀、周が商を滅ぼした後、商の王族に杞(き)という小国を与えて先祖を祀らせました。

 余談ですが、「杞憂」(きゆう)という言葉があります。これは杞の人々は今にも天が落ちてきはしないかと怯えていると馬鹿にしたことから、取り越し苦労を意味する言葉として定着したものです。

三輪山(奈良県桜井市)

 同様に物部氏の鎮魂には物部の血を引く者が最適です。王子善光が物部の血を引いているなら本田善光と同一人物である可能性が高まります。第二章で物部王家には百済王家の血が濃厚に入ったことを述べましたが、その逆を検討しましょう。

 私は第二章21.雄略の時代で次のように述べました。

 「475年頃、首都・漢城は陥落。王と王子は処刑され百済は滅びます」が、「雄略は大軍を派遣し高句麗、新羅と戦い、逃れていた百済王子を即位させ、南の熊津を首都として百済を再興」。「百済では再興後6世紀前半にかけて10基以上の前方後円墳が造られます。前方後円墳は日本独自の墳墓形態ですから日本と百済の関係が一層緊密になったことが解ります。」

 前方後円墳が再興後の百済で継続して造られたことは、百済王家に物部王家の血が入ったことを物語ります。王子善光は物部の血を引いていたはずです。

出雲バス停(奈良県桜井市)

 善光寺は時の最高権力者・藤原不比等が、自身もその血を引く(第六章をご参照下さい)物部氏の当主・物部守屋の鎮魂施設として造らせたもので、重要な国家プロジェクトでした。

 それは7.善光寺の位置と創建時期で述べた鹿島神宮と諏訪大社(守屋山)との位置関係や百済王から贈られた貴重な金銅仏を本尊としたことでも裏付けられます。その施設の名称には「善光」という人名が用いられました。「善光」は、「信濃国司の従者」(信州善光寺公式サイト)どころか他に代えがたい国家級の高貴な人物でなければなりません。

 王子善光は、持統朝から「百済王」(くだらおう)の氏姓を与えられています(日本書紀持統天皇7年正月、続日本紀天平神護2年6月28日条)。とするならば本田善光とは、物部の血を引く、百済王子の、百済王善光と考えても良さそうです。

 では「本田」は何を意味するのか。「本田」の音は「ホムタ」に通じます。5世紀に始まる物部王朝の始祖王・応神天皇の名はホムタワケ。この「ホムタ」が秦(はた)であることは第二章2.秦氏の王・応神天皇で述べました。善光が物部の血を引く、即ち物部王朝の始祖応神の子孫なら、その形容詞に秦(はた)、即ち「本田」を付けることに不自然さはありません。

写真7:三輪山(奈良県桜井市)
写真8:出雲バス停(奈良県桜井市)

9.難波

 百済王家は大阪の難波に拠点を置きました(日本書紀天智天皇3年3月)。仏像を流すならどこでも良さそうなものですが、「難波堀江」にしたのは何かしらの縁を求めたからに違いありません。

 善光寺が創建された当時、寺名の「善光」が百済王善光であることは知られていたはずです。難波を拠点とする善光なら「難波堀江」で拾ったことに不自然さはありません。日本書紀は百済王善光の手掛かりを残してくれていたのです。

 天皇家は、百済王から贈られた貴重な仏像を善光寺に提供した事実を隠す為に難波堀江に仏像を棄てたとしました。実際は天皇家からその仏像が提供されて善光寺ができますが、表向きは百済王善光が大阪の難波で拾って運んだとされました。

 しかし一旦海に棄てたものがみつかる可能性はほとんどなく、みつかったとすれば奇跡です。その奇跡を信じさせる工夫こそ3.二度目の棄仏で取り上げた記事だったのです。

 私の推測も交えて説明しましょう。

 敏達天皇の部分まで日本書紀の編纂が終わって程なく、明日香向原の難波池で金銅仏の胴体が発見されます。発見されたとは言っても発見されたことにしただけのことで、予定された発見です。

 発見を知った人々は日本書紀を調べ、「向原」と「難波」から最初の棄仏記事に注目します。やがて「難波堀江」に仏像を棄てたもう一つの記事に行き当たります。当時、漢文(中国語)を流暢に読める人は限られており、藤原不比等の意向を受けた人が予定された方向に誘導することは容易でした。

 敏達天皇13年9月に仏像がもたらされてから翌14年3月に難波堀江に棄てられるまで600字弱。漢文ですから長文です。蘇我馬子が仏像をもらい受け、祀り、疫病、棄仏と書き進められますが、最初に「仏像二体」とあるのみで最後まで従仏には触れられません。

 詳しく読んで初めて主仏として扱われている弥勒石仏に、一貫して従仏が伴っていた可能性に気付きます。それを前提とした場合、「焼かれた」ことから従仏は石仏ではないこと、従仏も棄てられたであろうことが推理できます。

 確かに発見されたのは石仏ではなく金銅仏で、その首が取れ、焼けた痕跡もあります。そして棄てられた場所は「難波堀江」。難波といえば百済王家が拠点とする大阪の地のはずですが、発見された難波池は明日香です。しかし「難波」が付く以上、「難波堀江」と言えなくもありません。検討の末、発見された金銅仏がこの従仏であるという結論に誘導されます。

 人々は、日本書紀が仏像を棄てる動詞まで正確に使い分けていることにも気付かされます。最初の棄仏記事で仏像が棄てられた大阪の難波は海であり流れがありますので「流棄」(流し棄てる)。明日香は池ですので単に「棄」。記述の正確さは驚きをもって受け容れられました。

 人類最大の喜びは知ることです。謎解きは楽しみです。解明に障害があったり、手数が掛かるほど知った喜びは増します。「向原」という地名に惑わされたものの二回目の棄仏記事を発見できました。新たに発見された遺物と記事を付き合わせて推理を重ね、ようやく結論に達しました。そして135年以上も前の記録が正確であったことを知ったのです。人々は歴史ロマンをかき立てられ、喜びと興奮に包まれます。

 ならば百済王から贈られた金銅仏はどうでしょうか。日本書紀の記述は正確です。記事では焼かれずにそのまま棄てられました。確かに善光寺の仏像は完全な形です。大阪の難波に棄てられたのも間違いなさそうです。

 ならば難波で発見されたというのは本当かもしれません。歴史ロマンに触発された気持ちの高ぶりは、推測をやがて確信に変えます。確かに海に棄てたものが見つかったのです。奇跡です。百済王から贈られ善光寺の本尊になった金銅仏は、奇跡を起こす霊験あらたかな仏像になったのです。

 従仏の頭は難波池に残され、それが江戸時代の発見につながります。

 百済王家は奈良時代に北河内(現在の枚方市中宮)に拠点を移しました。同地には今も百済王神社があり、百済寺跡が残ります。

10.鎮魂施設

善光寺本堂東面

 「善光」という人名を寺の名に使う特異性。仏塔がなく、本堂が全てと言ってもよい特殊な伽藍配置。その本堂の祭壇の中央に守屋柱。そして無宗派(注)。善光寺は鎮魂を目的とした特別な施設であることを思い知らされます。

 記録では11回焼け、その都度再建されてきました。極楽浄土へ導いて下さる本尊への信仰が再建をかなえたことは事実ですが、一方で物部守屋鎮魂の施設は必ず存在し続けなければならなかったのです。物部の血が天皇家に流れていることを意識し続けてきたことが解ります。

注:善光寺そのものは無宗派であるが、その運営は善光寺境内にある独立した組織(寺院)である大勧進(だいかんじん。天台宗)と大本願(だいほんがん。浄土宗)によって行われている。本来、両者の役割には明確な区分があり、大勧進が物部守屋の鎮魂を、大本願が民衆の本尊信仰を担ってきたものと筆者は考える。

写真9:善光寺本堂東面

第十章終わり