第九章 神器の創造と変遷<後編>

投稿日:2018年7月10日

14.神話の完成

 686年に天武(てんむ)天皇が亡くなると藤原不比等(ふひと)の時代がやってきます。不比等は天智(てんち)天皇の子であり天皇家に娘を嫁がせる藤原家の実質上の初代です。天武は天智を暗殺し、壬申(じんしん)の乱で天智の子である弘文天皇を自決させたことは第五章で述べました。不比等は天武を憎んでいます。

 690年、中国・唐の高宗の皇后・武則天(ぶそくてん)が皇帝に即位し、国号を周と改めました。国の乗っ取りです。都も長安(ちょうあん)から洛陽(らくよう)に遷し、神都(しんと)と改名しました。武則天は、中国史上初、そして唯一の女帝です。

 不比等は天武天皇の皇后を持統(じとう)天皇として擁立しますが、周にならってその即位年を武則天と同じ690年にします。建設途上の藤原京に代えて、神都と同緯度に平城京を建設します(第十四章で詳しく述べます)。

 不比等は、天皇を中心とした中央集権国家建設の一環として天武が編纂した歴史書に手を加えます。神話を更に長く複雑なものにし、歴史時代の始まりを千年近く遡らせて延長することで、日本が長い歴史をもつ立派な国であるように偽装しました。完成したものが古事記と日本書紀です。天皇家の神格化は一層進み、頂点に立つ天皇の地位は一段の高みに上がりました。

 主たる改変は、神話時代から実質上の初代天皇である崇神(すじん)にかけての部分で行われました。次にその流れを記します。不比等が新たに盛り込んだ部分には左側に「*」と、以下で触れる段落の番号を付けました。

創造神イザナギとイザナミの結婚
  ↓
太陽神オオヒルメの誕生
  ↓
*15 イザナミの死
  ↓
*15 太陽神アマテラスの誕生
  ↓
アマテラスの弟・スサノオの降臨
  ↓
八岐大蛇退治(クサナギの剣の神話)
  ↓
スサノオとクシイナダ姫の結婚、
大国主の誕生、大国主による国造り
出雲王朝の成立
  ↓
*16フツヌシとタケミカヅチの降臨
(フツミタマの剣の創造)
  ↓
*16大国主の国譲り(一回目。神話時代)
  ↓
*17 ニニギの天孫降臨(三種の神器の創造)
  ↓
*17 神武天皇の誕生
  ↓
登美ナガスネヒコの国譲り(二回目。歴史時代)
  ↓
初代神武天皇と大物主の孫娘の結婚、
二代目綏靖天皇の誕生(王朝間の接続神話)
  ↓
*21 二代目から九代目まで架空の天皇(欠史八代)の創造
  ↓
第十代崇神天皇(実質上の初代天皇。これ以降歴史時代)

15.アマテラスの創造

 山の神信仰を含んだ太陽神オオヒルメは不要です(山の神信仰が太陽信仰と結びついたことについては第十四章で詳しく述べます)。「皇祖神」(皇室の祖とされる神)の概念を明確にし、純粋な太陽神アマテラスを皇祖神として創造します。

 その方法はかなり杜撰(ずさん)です。天武が創った太陽神オオヒルメはそのまま残し、重ねて太陽神アマテラスを生むことにします。即ち、創造神イザナギとイザナミ夫婦が日本列島、オオヒルメ、月の神ツクヨミ、スサノオを生んだ後、女神イザナミが死にます。

 男やもめになったイザナギがアマテラスを生み、ツクヨミ、スサノオを重ねて生みます。多くの「一書」(別の書物)を引用してオオヒルメの別名がアマテラスであるかのような記述も盛り込みました。

 矛盾に満ちた複雑で長いものになりましたが、それは不比等の狙ったところでした。長くて複雑なほど日本は中国に対抗できる長い歴史と文明を持つことになるからです。

 伊勢神宮斎宮の南東には手つかずの照葉樹林に覆われた丘陵地が拡がります。不比等と持統天皇はここにアマテラスが住む神殿を建てます。これが今日まで続く伊勢神宮であることは前章で述べました。

 伊勢神宮斎宮(さいぐう)は維持しますが、祭神をアマテラスに変え、それを象徴する鏡を取り替えたであろうことは想像に難くありません。

16.二度の国譲りとフツヌシ神の創造

 天武天皇はフツミタマの剣の欠陥に気付き、最初の出雲王朝成立前から受け継がれるクサナギの剣を創造しましたが、フツミタマはそのまま残されました。

 不比等は、国譲りの話を一回増やして二回にし、フツミタマの欠陥を補います。

 先ず、タケミカヅチとフツヌシの二神が降臨し、出雲王朝の大国主が国を譲ることにしました。フツヌシ神はフツミタマの剣に宿る神を象徴しています。その後神武天皇が東征し、フツミタマの剣で窮地を切り抜け、登美ナガスネヒコが国(出雲王朝)を譲ります。

 即ち、出雲王朝を二つに分け、神話時代に設定された出雲王朝は大国主が国を譲り、歴史時代に設定された初代神武天皇の東征においては登美ナガスネヒコが国を譲ります。その二回の国譲りにおいてフツミタマが役に立ちます。

 フツミタマの剣は出雲王朝成立以前から皇祖神アマテラスの住む天の世界に存在したという設定であり、フツミタマの剣は、地上で得られたクサナギの剣より古く尊い存在になったのです。

 実は、日本書紀に先行して完成した古事記には肝心のフツヌシ神の降臨が抜けています。古事記編纂時点では、以下に述べる歴史の延長を目的として先ずは「二度の国譲り」を創造し最初の国譲りではタケミカヅチだけを降臨させました。

 第十四章で述べますが、タケミカヅチは平城京の守護神として創造されたものです。8年後の日本書紀完成までにフツヌシ神を創造してフツミタマの剣の欠陥を補ったことが解ります。

17.天孫降臨と神武天皇の創造

 そもそも国譲りで出雲王朝に国を譲らせたのは、降臨した太陽神ニギハヤヒでした。本来「国譲り」は神話時代に押し込められた出雲王朝から現実の王朝への接続神話です。

 不比等はこれを二回に分け、一回目は新しい神タケミカヅチとフツヌシを降臨させました。二度の国譲りを設定した不比等としては二回目は歴史時代の出来事にしなければなりません。神を降臨させる訳にはいきません。そこで初代神武天皇を登場させました。神武の在位は76年とし、この後述べる「歴史の延長」にも利用します。

 神武登場を具体的に見てみましょう。不比等は新しくニニギ神を創造し、神話時代の国譲りの後、三種の神器を持って降臨したとし、海幸彦(うみさちひこ。隼人の祖先)と山幸彦(やまさちひこ。神武天皇の祖父)の神話を挿入した上で、ニニギ降臨から「179万2千4百70余年」後に神武(じんむ)が東征し、国を譲り受けることにします。

 神武の結婚相手は、神話時代の出雲の王である大国主の孫・ヒメタタライスズ姫(3.最初の王朝交代 をご参照下さい)。実在を前提とする初代天皇にもかかわらず何十万歳かの嫁をもらったわけで、明らかに神武は神話と歴史の中間の存在になっています。

 こうして太陽神ニギハヤヒの果たした役割を太陽神アマテラス、タケミカヅチとフツヌシ神、それにニニギ神と神武天皇が分担することになり、ニギハヤヒ神の出る幕がなくなってしまいました。ニギハヤヒ神は隅っこに追いやられたのです。その追いやられ方はひどいものです。征服した側から外され、単に征服された登美ナガスネヒコが信じる神になったのです。

18.海幸彦と隼人

 海幸彦が出たところで隼人について考察しておきましょう。

 記紀は、応神天皇の北部九州から大和への東征における海上輸送と水軍、秦氏の朝鮮半島から大和に至る移住を助けた海上輸送、物部王朝の海上交通と交易、雄略天皇による百済再興のための大規模な兵力の輸送を担った者の記述を欠きます。しかし意図的に一切の記録を消す理由はなく、何かしらの手掛かりが残るはずです。

 記紀に隼人の祖は海幸彦とあります。日本書紀の海幸彦山幸彦の神話は4つの異説(「一書」)を挙げるなど長文であり、意図的に重点を置いたことは明らかです。記紀に「天皇と同じ太陽神アマテラスの子孫である『海幸彦』を祖とする」と設定された隼人こそが航海の民であり、物部王朝の盟友として海上輸送、海上兵力を支えたものと私は考えます。

 隼人の拠点はどこにあったのか。これも記紀に手掛かりがあります。ニニギは日向(ひゅうが。現在の宮崎県と鹿児島県。後に薩摩と大隅が分離)の高千穂に降臨し、コノハナサクヤヒメとの間に海幸彦、山幸彦が生まれます。

 高千穂は霧島連山にあり、その東は大淀川水系を成し下流は宮崎平野。南は菱田川水系を成し、鹿児島県大隅半島東側、志布志湾に流れ込みます。この地域には4世紀中頃から5世紀後期にかけて大古墳が築かれ(宮崎県の生目古墳群と西都原古墳群、大隅半島北部の唐仁古墳群と横瀬古墳)、相応の地方勢力の存在が推定できます(注)。

 日本書紀に隼人の居住地が最初に記されるのは天武天皇11年(682)7月。大隅と阿多(現在の鹿児島県南西部)の隼人が朝廷で相撲を取ったとあります。日向国から薩摩国が分離するのは702年、大隅国が分離するのは713年ですから、この時点で日向国の南部(宮崎県南部から鹿児島県)は隼人の根拠地であったことが確認できます。ニニギが降臨したとする高千穂は隼人の聖なる山だったのです。

注:主要古墳一覧

古墳名 墳形 所在地 墳丘長 築造時期
生目古墳群3号墳 前方後円墳 宮崎市 137m 4世紀中頃
唐仁大塚古墳 鹿児島県肝属郡 140m 4世紀末
女狭穂塚古墳 宮崎県西都市 176m 5世紀前半
男狭穂塚古墳 帆立貝形古墳 宮崎県西都市 176m 5世紀前半
横瀬古墳 前方後円墳 鹿児島県曽於郡 137m 5世紀中-後半

19.隼人と大王

久津川車塚古墳後円部(城陽市平川車塚。5世紀前半)

 記紀では応神天皇と仁徳天皇が日向の媛を娶ります。媛は隼人の王女のはずです。応神天皇は泉長媛。この婚姻により隼人の海上輸送と水軍の協力を得て応神は朝鮮半島南部を支配すると共に、物部王朝を開くことができたのでしょう。

 皇子の仁徳は髪長媛。二人の間に大草香皇子と若日下部王が生まれ(第二章13.番狂わせ系図をご参照下さい)、若日下部王は雄略天皇の皇后になります。

 日本書紀の隼人初出は、仁徳天皇没後(420年頃)の王位継承争いとみられる墨江中王の乱。中王を裏切る近習として登場します。雄略天皇の葬儀(503年と推定)にも近習の隼人が悲しみのあまり食事が喉を通らず死ぬ記事があります。

 5世紀を通して隼人の一定の地位のある者が大王(天皇)と極めて近い関係を維持していたようです。第二章前編で「仁徳天皇が磐之媛のために葛城部(かつらぎべ。葛城に設けられた奉仕集団)を定め」葛城が百済の拠点となっていたこと、「百済から極めて地位の高い王族が、おそらく途切れずに日本に派遣され」いわゆる大使の役割を果たし、「天皇に嫁いだ百済王女を支援すると共に、次の天皇もしくは次期天皇と目される皇子に百済王の媛を嫁がせることを主たる任務としていた」ことを書きました。隼人と王家の関係もこれと同様であったと私は考えます。

船が描かれた円筒埴輪(久津川車塚古墳出土。城陽市歴史民俗資料館展示物)

 二つの記事の「近習隼人」は隼人の王族であり、地名から京田辺市大住(おおすみ)を中心とした地域を拠点にしたと推測できます。大住は木津川が巨椋池に流れ込む地点にあり、巨椋池から淀川を30km下れば大阪湾(瀬戸内海)に至ります。

 木津川を挟んだ対岸の城陽市にはこの地域最大の前方後円墳・久津川車塚古墳(5世紀前半。墳丘長180m)があり、この古墳には三角の帆を張る船が描かれた円筒埴輪が並べられました。

 大草香皇子は妹・若日下部王と大長谷王(後の雄略天皇)の結婚をめぐって殺されます。百済と隼人の間で、媛を天皇や皇子に嫁がせる競合があったのです。

 西都原古墳群の女狭穂塚(めさほづか)古墳(5世紀前半)は、上石津ミサンザイ古墳(5世紀初頭-前期。堺市西区石津ヶ丘。宮内庁は履中天皇陵とするが、筆者は築造年代から仁徳天皇陵と推定。第13章注書きを参照下さい。墳丘長365m)と相似形で、前者は後者の墳丘長の48.3%、後円部高52.9%です。大草香皇子が母の母国日向の女狭穂塚古墳に葬られ、父・仁徳の墓の1/2の規模で造成されたと考えれば辻褄が合います。

写真8:久津川車塚古墳後円部(城陽市平川車塚。5世紀前半)
写真9:船が描かれた円筒埴輪(久津川車塚古墳出土。城陽市歴史民俗資料館展示物)

20.隼人の凋落

 隼人は、天智天皇の百済再興を目指した朝鮮半島出兵の海上輸送と共に水軍の主力を担い、白村江の敗北(663年)の結果、勢力が衰えたものと私は考えています。

 隼人は713年、大隅国の設置に伴い反乱を起こします。その後日本書紀が完成する720年にも大規模な反乱を起こしますが鎮圧され、律令体制に組み込まれます。

 不比等は記紀編纂にあたり、隼人の反乱を鎮め、統治を容易にする為に隼人の聖地・高千穂をニニギ降臨の場所に選んでニニギを天皇家と共通の祖先神としました。飴です。

 古事記はニニギの妻・コノハナサクヤヒメの本名をカムアタツヒメ(アタの女神)と記します。アタ(阿多)は鹿児島県南西部。隼人を追いやりたい辺境地アタの地名を入れてそこがあたかも隼人の母国であるかのように記したのです。

 日本書紀の海幸彦山幸彦神話第二の「一書」の最後に「是以火酢芹命苗裔諸隼人等至今不離天皇宮墻之傍代吠狗而奉事者矣」(海幸彦が神武天皇の祖父である山幸彦に仕えるようになったので、海幸彦の後裔である諸々の隼人は、今に至るまで天皇の内裏の傍らを離れず番犬になりお仕えしているのだ)とあります。

 隼人はその始まりから今に至るまで番犬に過ぎなかったという朝廷に都合の良い歴史を創ったのです。そして隼人の反発を和らげる為に、4つもの「一書」を並べてその中に埋もれる形にしました。その上でそれを実体化する目的で朝廷に「隼人司」を置きました。

 尚、宮崎県西臼杵郡(にしうすきぐん)にも高千穂があります。隼人の元の聖地はここであったものが、船材用の木材資源の枯渇から本拠を南方に移したとも考えられます。

21.歴史の延長

 中国の初代王朝・夏(か)ができたのは紀元前二千年。不比等が生きた時代に中国は二千七百年の歴史を持ちました。一方日本は、3世紀にヤマト国(邪馬台国)ができてから五百年の歴史しかありません。不比等は、歴史を延ばそうと考えました。方法は簡単です。

 神武天皇の即位を九百年余り遡らせ、紀元前660年(昭和15年を皇紀2600年とした場合)とします。浮いたその九百年間に架空の天皇八代を設定したのです。第2代綏靖(すいぜい)天皇から第9代開化(かいか)天皇まで。この間、記紀には事績や物語がほとんど書かれていません。これを「欠史八代」(けっしはちだい)と言います。

 第十代崇神(すじん)が実質上の初代天皇。日本書紀も神武天皇と同様、「ハツクニシラス」(初代天皇)とします。

 初代神武天皇と欠史八代で九百年を埋めるのは困難ですので、崇神天皇の即位も実際よりはかなり古く設定され、寿命も百二十歳。この後の天皇も延長した歴史を埋める為に16代仁徳天皇に至るまで長寿にされます。

22.鹿島神宮と香取神宮

物部王朝が祀り始めた住吉大社

 神器に戻りましょう。

 不比等は皇祖神アマテラスを祀る神殿を建設しました。斎宮にはアマテラスを象徴する神器鏡を祀りました。次は、二つの神剣を祀る神社の建設です。

 不比等は、二つの剣のみならずニギハヤヒ神がもたらした十種神宝(とくさのかんだから)や物部王朝の宝物を併せて祀る石上(いそのかみ)神宮に代わって、純粋に神器剣を祀る鹿島(かしま)、香取(かとり)、熱田(あつた)の三つの神社を造ります。

 鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)にはタケミカヅチ神が祀られ、フツミタマの剣を神宝としています。香取神宮(千葉県香取市)にはフツヌシ神を祀ります。フツヌシ神がフツミタマの剣を象徴していることは第七章5.二種類の神剣で述べた通りです。

 これら二社が石上に代わってフツミタマを祀る存在になりました。二社になった理由は、先に述べたように平城京の守護神として先ずはタケミカヅチを創造し、タケミカヅチだけを祀る鹿島神宮を建設しましたが、日本書紀ができるまでの間にフツヌシを創造しましたので別に香取神宮を建設せざるを得なくなり、そうすると神器と関係のないタケミカヅチの重みが減る為、やむなく鹿島神宮もフツミタマの剣を祀ることにしたのでしょう。

物部守屋を追悼する善光寺

 石上は国家級の祭祀を行う場所ではなくなりました。平安時代、927年にまとめられた延喜式神名帳には、伊勢、鹿島、香取の三社のみが神宮で、石上が抜け落ちています。

 尚、鹿島、香取は「神宮」とは言うものの、斎宮は伴っていません。高い格付けを表す為に「神宮」の呼称が使われるようになったのです。

写真10:物部王朝が祀り始めた住吉大社
写真11:物部守屋を追悼する善光寺

23.熱田神宮

 もう一つの神剣・クサナギは熱田神宮(名古屋市)に祀ります。熱田は鹿島、香取に比べて神階が低かったのですが、いつのまにか神宮を名乗るようになります。

 熱田神宮では、ヤマトタケルの死後、その妃が剣を熱田に祀ったのが神宮の始まりとしています。

 日本書紀には天智天皇7年(668)、「新羅僧道行が盗んで新羅に持ち帰ろうとしたが、船が難破し戻った」とあります。熱田神宮では、熱田神宮から持ち出されたものが宮中に戻され、朱鳥元(686)年、天武天皇崩御前の病気を機に熱田に戻されたとします。朱鳥元年といえば石上で祀り始めた年です。熱田が石上にとって代わったことを示します。

24.熱田神宮その後

 熱田神宮は鎌倉時代にも栄えます。源頼朝(みなもとのよりとも)の生母が熱田神宮の大宮司藤原季範(ふじわらすえのり)の娘だったのです。室町時代も守護・斯波(しば)氏の保護を受け、織田信長の寄進も得ました。一時衰退しますが、貞享3年(1686)、徳川五代将軍綱吉が再興。綱吉が帰依した真言宗豊山派の寺として生まれ変わります。

 明治維新の廃仏毀釈により、ほとんどの建物は破壊され、記録も失われてしまいました。新たに国家神道を担う熱田神宮としての再出発です。記紀に書かれた三種の神器・クサナギの剣を祀っていることが権威付けに役立ちました。

 大日本帝国拡大の為に戦争が続きましたので「戦の神」として大繁盛しました。しかし、敗戦を経て平和国家になった現代日本では、何とも収まりの悪いことになってしまいました。ただ今日も多くの参拝者で賑わいます。それは伊勢、鹿島、香取、石上と同様にこの国の成り立ちに関わる神器に宿る神が祀られているからに他なりません。

第九章終わり